【短編】『慎重に、そして大胆に』(後編)
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慎重に、そして大胆に(後編)
男は焦っていた。いよいよパトカーに真後ろまで接近されては、そのままこの車を追い抜いてしまうのではないかといった顔つきを運転席に向けていた。もはや初めから結末はそう決まっているのだと言わんばかりに、サイレンの音がますます大きくなった。運転手も極度の緊張のせいか少しばかりの運転の荒さが際立ってきていた。一層のこと急ブレーキを踏んで、自らパトカーが追いつくのを待とうかと思っていた。そうすれば、男も体制を崩して銃を運転席に落としてしまうのではと僅かに残った理性をもとに思考を募らせた。すると、顔色の悪かった男がふと銃を懐に閉まったかと思うと、急に何かを語り始めた。
「教えてくれ。本当にこれで正しいのか」
運転手は何も言わなかった。あるいは何も言えなかった。
「実はこの袋の中には大金が入ってるんだ。今日は娘の誕生日だから大きなおもちゃを買ってやろうと思ってな」
突然男は狂い始めたのか、妙なことを語り始めた。
「今ちょうど娘はポキモンにハマっているんだ」
男は正気の沙汰ではなかった。おおよそ何処かで強盗を働いて警察から逃走を試みている最中だというのに、それを娘のためと言い張るのだ。いくらなんでも娘に贈るプレゼントを買うにはあれほどの大金はいらないだろうに。そんなおかしな状況の中、なんとか冷静を装って運転を続けられてはいるものの、轟くサイレンの音に飲み込まれて頭が真っ白になりつつあった。
突然ブザーの音とともにスクリーン全体が赤くなった。
「緊急信号です。緊急信号です。直ちにその区域を脱出してください」
機械音は繰り返しそれを唱えた。しかし、ここで後戻りするわけには行かなかった。我々に託されたミッションは地球に住む人々の命運がかかっているのだ。
「どうだ?障害物は」
「徐々に大きくなっていく一方だよ。前方左上、900立方メートル。前方右上、1300立方メートル。そろそろ引き返そう」
「ダメだ。なんのためにここまで来たんだ。地球の未来がかかっているんだぞ?」
「わかっているよ。けどここで我々が死んだら元も子もないだろ」
と相棒の方を振り向き一瞬レーダーから目離した瞬間、大きな衝撃音とともに二人は座席に叩きつけられた。意識が朦朧とする中、どこからか妻の声が聞こえたような気がした。すると妻が朝食を作ってくれている様子がぼんやりと目に映ったのだ。ずっとベッドで寝ている僕を起こそうとしているようだった。妻は僕に言い続けた。そろそろ起きなさい。起きなさい。起きて。
女はモニターの一点を見つめながら、考え事をしていた。夫はなぜこの女を選んだのか。あの時なぜ私からその事実を隠し続けたのか。私には分からなかった。自分がどれだけ苦しんだのかあの男は何も知らない。知ろうともしなかった。なのに、今になって君なら信頼できると言う。私には分からなかった。そもそもあの男は、私が仕事ばかりして会えないことに不満を抱いていた。確かに私にも非はあったけれど、不倫をしたのは彼の過ちで私に責任はないのだ。
「先生、残り10分を切っています」
まだ一時間も経っていないのに、すでに何時間も手術室にいるような気がした。もうタイムリミットは間近に迫っていることに、不思議となんの焦りも感じていなかった。今までとはどこか感覚が違った。一層のこと、目の前にいる元夫の不倫相手、今や再婚者の命を断念しようかとさえ思えてしまった。すると、今はもう遠く空の上のどこかにいる夫が、地球を発つ前に言った言葉が脳裏に蘇った。
「君は僕の代わりに今生きる人たちを救ってくれ。僕は君の代わりに未来の人たちを救う」
そうだ。私は仕事に生きていいんだ。目の前にいるのは元夫の不倫相手なんかじゃない。一つの尊い命なんだ。私が彼女を救わなくてどうする。未練なんて持ったってしょうがない。女は再び気を引き締めると、目つきを変えて必死に血栓の場所を探り続けた。
一瞬、男の青いワンピースの中からペンダントが顔を覗かせたのがバックミラー越しに見えた。そこに娘の写真が入っているのかと思いきや、写真を収める形ではなく単にピンク色のハード型をしていた。なぜ女物を首に下げるのかと不思議に思ったが、この状況でそうも冷静に考えていられず、サイレンの音から逃げ続けた。
「娘は言ったんだ。お父さん早く退院してねって。この世で一番愛している人からのその言葉はかけがえのないものだった」
男は青ざめた様子で呟いた。
「もういい。もういいんだ。車を止めろ。もう撃つつもりはない」
私は男をミラー越しに凝視した。
「これ以上逃げても無駄だってことぐらい俺にもわかる」
男は何もかも諦めた様子で、服の中からペンダントを手に取った。とその時、灯の下で運転手の目にペンダントの裏側に隠れた何かが映った。そこには2018.5.13〜2023.10.8と書かれていた。運転手は確信した。そのペンダントはただのペンダントではないことを知っていた。彼自身も似たようなペンダントを身につけていたのだ。それは亡き妻の遺骨を入れたものだった。運転手は後ろを振り向いて言った。
「お客さん、諦めるにはまだ早いぜ。タクシー運転手を舐めてもらっては困るよ」
運転手はアクセルを今までにないほどに強く踏んでは、突き当たりを急カーブで曲がった。
目を覚ますと機体のシステムは何もかも止まっていて真っ暗だった。しかしある音だけが機内を繰り返し駆け巡っていた。
「今日は夜勤で電話できないの。ごめんなさい」
「今日は夜勤で電話できないの。ごめんなさい」
「今日は夜勤で電話できないの。ごめんなさい」
男は最後の力を振り絞って、気を失っている相棒の目の前にあるレバーを引いた。すると一気にエンジンが復旧し、機体の現在の状況を分析し始めた。レーダーによると、機体は障害物の間をある一定方向に向かってゆっくりと回転をしながら進んでいた。あるいは浮遊していた。すぐにハンドルを操縦し、元来た方向へと向きを定めた。終始響く妻の声を聞いてある思いが胸に込み上げてきた。
「ごめんよ。未来の人たちを救うことはまだできそうにない。けれど今僕は、僕と僕の相棒を救うことができる。僕たちは人類の代表なんかじゃない。そんなもの背負う必要ないんだ。僕は人々を救いたいと思うただ一人のちっぽけな人間で、君に会いたいと思うただ一人の男なんだ」
「私は外科医だ。目の前の患者の命を救えればそれでいい」
「あんたを必ずここから逃す。娘さんはきっとまだあんたのことを待っているはず」
彼らは各々の思うままに大きく舵を取った。
了
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