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【短編】『コンピュータが見る悪夢』(中編「密売人」⑩)
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コンピュータが見る悪夢
(中編「密売人」⑩)
父が人を殺した。フィルの思考は即座に回転を始め、それが何を示すのか、なぜ家に戻って来ることができないのかという原因と結果を繋げようと試みた。しかし極小な光が細い回路を進む中、何かがフィルの思考の邪魔をした。なぜ人を殺したら家に帰ってきてはいけないのか。父はいつも言っていた。良いことするのではなく、人の役に立つことをしろ。俺は人の役に立っていると。父にとって人殺しは、誰かの役に立つための殺しなのではないか。もしそうなのだとしたら、父の殺しが許されないなんておかしい。役に立つことが非難されるなんて間違っている。この社会はどうかしている。フィルはこの街に一人取り残されたような気分だった。
左肩に右手を当て、父から受けた傷の痛みを思い出した。父にもう会うことはできない。しかし自分はまだ父に認めてもらっていない。これまで父に認められたいがために盗みを働いてきた。それももう意味をなさないというのか。父が自分の盗んだウィッカを何杯もグラスにつぐ姿は今でも鮮明に覚えている。その幸せそうな顔はフィルの精神に安心を与えた。自分は父の役に立っている、そう思えた。これから自分はどうして生きていけば良いのか。これ以上盗みを働いてもそれに満足してくれる人がいなければ仕方がない。きっと警察官の叔父には理解できないことだろう。フィルは叔父の言葉に相槌を打ちながら、分かったような顔で自分の部屋へと戻った。内心はひどく傷ついていた。卑劣な世の中を恨んでさえいた。
その夜フィルはある夢を見た。元の家のベッドに仰向けで寝ていた。玄関の扉が閉まる音が聞こえる。父が帰ってきたようだ。ふと父に自分がついさっき買った(盗んだ)ばかりのものを見せたいと思った。フィルはベッドから起きあがろうと腹に力を入れた。しかし、全く身体が言うことを聞かないのだ。身体中の神経が麻痺しているらしい。しばらく何もできずに天井だけを眺めていると、自分の顔の表情筋は動くことがわかった。顔をあらゆる角度に歪めていると、徐々に口元の神経が蘇り首の筋も動くようになった。しかしそこから下は一向に動かない。力を振り絞って、へそに額をつけるように首を曲げると、フィルは気味の悪い光景に思わず叫んだ。両腕両足がなくなっているのだ。まるで芋虫のように体は先端に向かってまっすぐと線を描いていた。
耳障りな目覚まし時計と共にフィルは目を覚ました。嫌な夢を見た。いったいなんだったのだろう。いくら記憶を遡っても自分が何の夢を見ていたのか明確には思い出せなかった。ただ何かを失ったという喪失感だけが、早朝の朦朧とする頭に漂い続けた。
学校は、フィルにとって思い描いていたものとは違った。男友達と最近流行っていることについて話し、いかに女の子を上手に口説けるかについて議論し、実際に行動に移す間際に皆で逃げる。そういったことをするのが学校だと思っていた。しかし、実際にはそうではなかった。皆勉強のことばかり話した。授業中は手をあげて質問をしないとかえって目立ってしまうほど皆積極的だった。フィルは先生の言っていることの半分も理解できなかった。友達を作ろうにも、すでにできあがっているグループに割って入るのは気が引けた。孤独は家の中だけでなく、どこも同じだった。わざわざ三十分もかけて通う必要があるのかさえわからなかった。
「おまえ、フィルって言うのか?」
誰かが自分の名前を呼んでいる。空耳だろうか。机の上で組んだ両腕の中から顔を出すと、こちらに何者かが視線を向けている。同じクラスの男子生徒だった。
「うん」
「どこに住んでるんだ?」
「チャイナタウン」
「ほんとか?」
「間違えた。ミッションエリアだ」
「そうか。なんで転校してきたんだ?」
「叔父が勝手にそうさせたんだ」
「親はいないのか?」
「うん」
「おれはニール。よろしく」
ニールはやや肌の色が褐色で、髪質も他の生徒と違って太く頑丈に見えた。彼の眼差しは鋭く、なぜか責められているようにさえ感じた。しかし初めて声をかけてくれた人だ。今の立場で選り好みはできない。フィルは差し出された手を軽く握った。
「よろしく」
ニールとは帰りのバスが同じだった。他に友達を連れているわけでもなかった。自分と同じく友達がいないのだろうか。しかしフィルにとってはどうでも良かった。話しかけてくれる人がいるだけで十分だった。
「なあ、初めて見た時から思ってたけど、おまえこの学校向いてないよ」
フィルは一瞬心臓が縮むような気持ちがした。
「そうかな」
「ああ、向いてない。周りはみんな勉強マニアばっかだし、いい家の子供が集まってるんだ。おれもここに向いてない。あいつらとは話が合わないし、あっちもおれとは話したがらない。だから向いてない同士仲良くしようぜ」
ニールも自分と同じく学校に馴染めていないようだった。いい家の子供というのはお金持ちということだろう。どうやら叔父に入れられたのは立派な人間を育てるための立派な学校のようだった。言われてみれば、校舎の作りからは大金が使われている匂いがするし、授業の内容も難しくて全くついていけない。警察官の叔父はどうやって高い学費を払っているのかという疑問が浮かんだ。
フィルは金のことになると人一倍敏感になった。盗むという行為を続けてきて唯一学んだのが、金の価値とその動きだっだ。盗んだものの価値を知らなければ盗む意味もない。その見えない価値を感覚で見ることによって、人が何に金を使うのかという仕組みをつかめるようになった。電車に乗るための金。ものを買うための金。人を雇うための金。道を綺麗にしてもらうための金。同時に、フィルには盗めないものがあることも理解していた。それは金と同様サービスという見えないものである。サービスを受けて代金を払わなければ実質サービスを盗んだことにはなるが、フィルにとってそれはリスクが大きすぎた。フィルにもルールがあった。誰にもバレることなく、そしてなるべく傷つけることなく盗むことだ。サービスを受けてからだと代金を払っていないことがすぐにバレる。そのためフィルの盗むものは形のある商品に限った。
前の席に座る老夫婦がバスを降りると、ニールは荷物を放り投げて席を移った。
「このあと暇か?」
「うん。何もない」
「そうか。ちょっと紹介したいやつらがいるんだ。付き合ってくれないか?」
「わかった」
てっきり友達がいないのかと思っていたが、学校の外にいるようだった。やはり自分と同類とは言い難い。孤独なのは自分だけだった。
高いビル群を抜けていくと、広い公園の前でバスが停まった。ニールは荷物を背負うと、ここで降りるぞという合図をしてから席を立った。フィルはその後についていき、扉が閉まる寸前にバスを出た。来たことのない場所だった。周りは住宅街で、ちょうど後ろに通ってきた大きな街が見える。公園は奥に続いており、手前は巨大な松の木が何本も聳えている。
「もうやってるかな?」
「誰に会うの?」
「まあ、ついてきな」
二人は木々の間を抜けて歩き続けた。途中で大きな看板が道を示した。ゴールデンゲートパーク・ロイドレイク方面。聞いたことのある名前だ。きっとゴールデンゲートブリッジから取ったんだろう。しばらく土とコンクリートが混ざった凸凹道を辿っていくと、ようやく目の前の景色がひらけた。芝生で覆われた広い大地が視界いっぱいに映った。
「やってるやってる」
木陰にある大きな丸太の上には、男が何人かで集まって話をしていた。その時、フィルの嗅覚を、どこかで嗅いだことのある匂いが刺激した。土と血と何かの煙の混ざった異様な匂い。瞬く間にフィルの頭上にはその時の光景が浮かび上がった。それはフィルがいつか公園で転倒し意識を失いかけた時のものだった。
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