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【短編】『コンピュータが見る悪夢(中編「密売人」⑦)』

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コンピュータが見る悪夢
(中編「密売人」⑦)


 斜面に沿って一面に芝生が生えていた。すぐ上の方で三人の男たちが寝そべって何かを話している。こちらには気づいていない。嫌な匂いは彼らの方から漂ってくる煙からするようだった。

「大丈夫かい?」

 近くでしゃがれた声が響いた。一人の老人が心配そうな顔でフィルを見つめている。

「怪我してるじゃないかあ」

 老人が見つめる先に視線を合わせると、右手の中指と小指の先から手の甲にかけて何本も赤い線が流れていた。キックボードから転倒した時に草で指を切ったらしい。勢いよく投げ出されたせいかフィルの真下にある芝はえぐられ、土が露わになっていた。土の匂いは自分の指先から流れる血の匂いとどこか似ていた。嫌な匂いではなかった。それよりも向こうから浮いてやってくる動物の糞のような匂いの方が、まるで転倒した自分に現実を突きつけてくるかのようだった。

 老人が再び何かを言ったような気がした。しかしフィルには聞き取れなかった。目の前の景色は歪み、時間はゆっくりと流れ始めた。先ほどキックボードに乗っていた時に見ていた景色とは大違いだった。この感覚をどこかで感じたことがある。そうだ。家で酔っ払った父に打たれた時だ。父の拳が自分のこめかみに触れた途端、体は床に叩きつけられ、目の前の景色はゆっくりと再生される。フィルはこの激しい痛みと朦朧とする感覚を忘れることはなかった。父の偏った愛はフィルにとっての嫌な現実を思い出させるトリガーだった。芝生の上で放心しているこの状況はそれに似ていた。

 気がつくと、右手に水の入ったペットボトルを持っていた。手の甲を流れていた血はすでに乾いていた。なぜ自分はペットボトルを持っているのだろうか。上を見上げると老人の姿があった。そうだ。さっき老人が話しかけてきたんだ。この水はきっと老人のものだ。フィルはそのありがたみを水分とともに飲み込んだ。ごっくん。喉を通過する水の音がゆっくりと頭の中で響く。水は体内で循環し始め、粘り気のあった血は瞬く間に液状と化した。フィルの目に映るぼやけた光景は徐々に解像度が上がり、そこにまだ電動キックボードが倒れていることを確認した。もう三人組の男たちの姿も、強烈な匂いも、公園からは消えていた。

 フィルは水を半分まで飲み干して、老人に返した。

「大丈夫かい?」

「うん。ありがとう」

「よかった。ものすごい勢いで転んだもんだから、てっきり大怪我でもしたかと思ったよ」

「痛かったけどもう大丈夫」

「そうかい。気をつけて走るんだぞ?」

「うん」

 フィルは重たいリュックサックを背負い直して、電動キックボードのところまで一歩一歩と近づいていった。幸いどこも破損しておらず、電源もついたままだった。

 盗まれてなくてよかった。

 その言葉が脳裏を掠めた瞬間、つい先ほどまで誰かが所有していたキックボードを、すでに自分のものとして認識していることに気がついた。普段は店に売っているものをリュックサックに入れて家に持ち帰るため、なんの疑問も持たなかった。

 しかし、今回は違った。誰かしらが自分のものだと認識しているものを盗み、それを改めて自分のものにする行為。それはある意味、他人の自由を自分が奪っていることに変わりなかった。父の言ったように、誰かの役に立つことに善も悪も存在しなかった。役に立つためには、誰かの自由を奪う覚悟を持たなければいけないということのように思えた。

 そういえば、バットマンのカルトゥーンでも同じようなことを言っていた。たしか――、「街を救うためには、時にその一部を犠牲にしなければいけない」というバットマンのセリフがあった。そうか。ヒーローになるためには、何かを奪い、同時に何かを失うことを恐れてはいけないんだ。自分の夢のためなら傷つく人がいても仕方がない。この電動キックボードを持っていた人の気持ちを考えると、いかに自分が卑劣なことをしているかと悩み始めてしまう。しかし、それを我慢できないのなら盗むことは許されない。そう父もバットマンも伝えようとしているように感じた。

 父は誰かの命を奪う武器を作ることでお金を稼いでいる。父はそれを人の役に立っていると言っていた。つまりは、父にとって生きていくためには人を殺すことも必要だということだ。この世界は、自由の奪いなんだ。誰かの自由を奪って、自分が自由を得る。そうやって世界は成り立っている。フィルはどこか世界の秘密を知ってしまったような気がして胸が熱くなった。まだ世界はいつも通りフィルを囲んで時間を進めていた。世界に自分のことを気づかれる前にフィルはその場を後にした。

 電動キックボードに乗っていると、今度は自由を手にしたことに喜ぶ以上に、人から奪って得た自由に充足感を覚えた。自分はヒーローになれる。ヒーローなんだ。バットマンの乗るバットモービルを想像しながら、人気の少ない路地を走り抜けていった。

 家の近くまで来ると、フィルの意思に従うかのようにキックボードは徐行を始め、玄関の前で止まった。フィルはどこにこのキックボードを置こうか迷った。家の外に置いていたら、誰かに盗まれる可能性だってある。しかし、家の中に置けば父に知られてしまう。こんな高価なものを盗んだとなれば父はなんて言うだろうか。そもそも父はものを盗んでいることをどう思っているのだろうか。まだ父にこのことを言ったことはなかった。自分がものを盗んでいることを知ったら父は怒るだろうか。それとも褒めてくれるだろうか。自分にとっては人の役に立つ行動だと思っていても、父がそう思っていなかったらどうしよう。フィルの頭には一抹の不安がよぎった。まあ、知られなければいい話だ。父に気づかれない場所に隠しておこう。フィルは世界の秘密を知ったことで自信を持ったのか、今までより頭が回るようになっていた。


 年を重ねていく一方で、父からの暴力も増えた。始まったばかりのフィルの反抗期の次に、父の酒を飲む頻度が増えたことが大きな原因だった。フィルの万引きの技術が磨かれていくうちに、家中を酒が埋め尽くすようになった。さすがの父もフィルが万引きをしていることに気がついている様子だったが、一切咎めることも褒めることもしなかった。ただ、フィルにとっては、喜んで酒を飲む父を見ると、どこかで自分の行いが人の役に立っていると実感でき、生活する中で必要な安心を与えてくれた。

 それによって自分が被害を被ることもわかっていた。しかし、もうフィルにはやめられなかった。店員や持ち主に盗みが見つかってしまう可能性のはらんだスリルと、盗みを成功した時の達成感とが、フィルの脳内の報酬系回路を活性化しつつあった。


最後まで読んでいただきありがとうございます!

▶︎続きの【中編「密売人」⑧】はこちら


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