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【短編】『コンピュータが見る悪夢』(中編「密売人」十五)

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コンピュータが見る悪夢
(中編「密売人」十五)


「どこまで行くの?」

「フレズノって街だ」

「そこで運び屋をするのか?」

「いいや、フレズノでは知り合いの男と会わせるだけだ。どこで運びの仕事をするのかは聞いてない」

「そうか」

 ベイブリッジを走る車窓からはサンフランシスコの街がよく見えた。ビルたちがちょうどよい位置に建ち並び、都市の輪郭を形作っていた。初めて目にする壮大な光景はまるで長く異国にでも訪れていたかのようだった。オークランドを抜け、峠を越え、町に入っては再び峠を越えた。

 昨夜はあまり眠れなかった。当分家に帰ることができない寂しさと、向こうでうまくやっていけるのかどうかという不安が、交互に何度も押し寄せた。友人であるカーリーが紹介してくれるのだから特に気に病むこともないと思いつつも、移民を不法で入国させることがどういう仕事なのか想像がつかず、心の準備が必要だった。キックボードともしばらくはお別れだ。ある意味でキックボードは自分の過去でもあった。盗みをしてきたことで今の自分がいる。その過去を一時的に捨てなければならない。これからは新しいやり方で生計を立てなければならない。その決断をしたことは自分でもわかっている。けれども、頭は理解していても心はまだ家のベッドの上ですやすや寝ているような感覚だった。

 知らぬ間に運転するカーリーの隣の席で眠ってしまっていた。目が覚めると、あたり一体が緑と白茶に一変していた。

「もうすぐフレズノだ」

「ごめん、寝ちゃったよ」

「いいよ。むしろ今のうちに十分睡眠をとっとけ」

 そのカーリーの言葉は、まるでこれから過酷な労働が待ち受けているような言い草だった。フレズノはサンフランシスコと比べると小さな街だった。遠くには白いファンデーションで肌が覆われた山脈が見えた。車は表に大きな庭のある一軒家の前で駐車した。すっかり空は明るくなっていた。大きなオレンジの屋根に壁は褐色に塗られている。窓も大きく、家の中は白いブラインドカーテンで見えなかった。家の隣には幅の広い駐車場のようなものもあった。金持ちのようだ。フィルはカーリーとともに車を出ると、玄関でインターフォンを鳴らした。

「誰だあ?」

 インターフォンからは寝起きの男のガラガラ声が聞こえた。

「サイボーグです」

「おお、もう着いたのか。ちょっと待ってろお」

 サイボーグ――。カーリーの使う通り名のようだ。この年で大金を手にするぐらいだから、麻薬組織と繋がっていることはすでにわかっていた。その巨大な海の中にこれから自分も入る。そう思うと自ずと気が引き締まった。目の前の茶色い玄関ドアが開いた。中からはグレーのパジャマの上に青いカーディガンを羽織った男が現れた。

「待たせたな」

「いいえ、早くにお邪魔してすみません」

「いいんだ。さあ中に入ってくれ」

 男はドアを引いて鍵を三重に閉めると、下の隙間に黒のガムテープを貼った。フィルが興味深くそれを見ていると男は口を開いた。

「最近の警察は賢いんだ。家宅捜査に入る前に、ナノレベルのカメラを使って玄関の隙間から家の中を覗くんだ」

 ナノレベル――。隙間を通すほどの細いカメラということか。フィルは少ない情報の中から自分の不足した語彙力を補った。

「そうだ、忘れていたよ。俺はミュール、運び屋のミュールだ。君の名前はたしか――、ウィリアムだっけか?」

「フィルです」

「そうか。フィルか。よろしく」

 フィルは男に対する警戒を解くことなく、目で男の表情を追いながら頭を軽く下げた。

「お久しぶりです」

「久しぶりだな、サイボーグ。元気にやってるか?」

「はい。今は自力で株の売買をやってますよ」

「そうか。若いのは覚えが早いから羨ましいよ」

「そんなことないです」

 カーリーはこの男と長い付き合いのようだった。どこで知り合ったのか、一緒にどんな仕事をしていたのかは話してくれなかった。ただ知り合いとだけフィルには伝えていた。

「あの――」

 フィルは長く続く彼らの話に割って入って、自分の存在を訴えかけた。

「これからお世話になります。仕事は何でもやります。盗みが得意です」

「ああ、聞いたよ。今までものを盗んで生活してきたんだってな」

「はい」

「あいにく盗みの仕事はないが、君なら他のこともすぐ覚えられるだろう」

「ありがとうございます。他のことって例えばどんな?」

 フィルがそう言うと、男は真顔になってこちらを見た。カーリーも気まずい表情を浮かべていた。

「まあ詳しい話は店で飲みながらでもしようじゃないか。君、酒は飲めるか?」

「ミュールさん。僕たちはまだ未成年ですよ?」

「そうかそうか」

 男は咳き込むような不自然な笑いで誤魔化した。昼間から酒か。まるで父のようだ。名前を間違えた挙句に年齢まで見分けがつかないとは、この男が本当に運び屋をできるのか心配になった。

「それじゃ、僕はここらへんで帰ります。フィルをよろしくお願いします」

 カーリーの話し方は、他の三人と話す時とは違って声に張りがあった。やけに男に対して礼儀正しかった。会話を聞いた上で、この男がそこまでの礼儀を払うに値するかはフィルには疑わしかった。

「じゃあ、フィル。頑張れよ。それと――」

 カーリーが突然自分に近寄ると、耳元で小声で話した。

「くれぐれも人の金には手を出さないようにな」

 なぜ彼がそう言ったのかフィルには理解できなかった。盗みが得意というだけで人の金を盗むと思っているのだろうか。あるいは大金を稼ぎたいという本心を見抜かれているのだろうか。カーリーの無表情から彼の知っていること知らないことを判断することは難しかった。自分の心は見透かされるのになぜカーリーの考えることはわからないのか。人は生まれながらにして不平等に他者との間に見えない壁を持つのだ。カーリーのそれは分厚く、自分のは薄い。ただそれだけのことなのかもしれない。

 カーリーを見送ると、ミュールという男と駐車場に入った。中には大きなフォード車が置いてあった。隣にはテスラ車がある。おおよそフォードの方の車で移民を輸送するのだろう。危機感を持ったフィルは妙に勘が働いた。

 男はテスラに乗り込むと、助手席に乗るよう中からフィルに指示した。

 二人は車を停めて近くのダイナーに入った。客席は古い味のある店を模倣しているのか、革製の赤いシートが全てに被さっていた。室内はテーブル席が窓際に三席あり、厨房の向かいにはカウンター席もあった。フィルとミュールはテーブル席に腰をおろすと、ミュールが立ち上がって声を張った。

「おっちゃん、生一つ頼むよ!」

 店のオーナーが厨房の中にいるようだった。ミュールはオーナーがそれを聞き取ったのかも確認せずに、自分にメニューを差し出した。

「大丈夫です」

「いいから、朝飯だ」

 フィルは礼も言わずに、男を見つめる視線をメニューに落とした。ポークソテー、ミートソーススパゲッティ、ベーコンエッグハンバーガー。フィルはハンバーガーを指差した。

「これを一つお願いします」

「わかった」

 そう言うと、男は再び席から立ち上がった。

「おっちゃん、ベーコンエッグハンバーガー一つ! あとオレンジジュースも」

 勝手にオレンジジュースを注文された。店の向こうから返事はなかった。ミュールが席につくと、一度こちらを見て変な笑みを浮かべた。ミュールは麻薬組織の人間にしては、怖そうな顔をしていなかった。白髪の目立つ頭に、汚い形の鼻。大きな口。顎からも白い髭を生やし、どこか浮浪者を思い出させる。

 気がつくと、厨房で料理をする音が響いた。オーナーはいるようだ。彼らの間にも見えない壁があるのだろうか。だからミュールという男にはオーナーの反応がわかって、自分にはわからないのだろうか。すぐにカウンター横のスウィングドアから大きな図体の男がトレーを片手に持って出てきた。トレーをテーブルに置くと、二人の顔を順に見て店の奥へと帰っていった。

「さあ、乾杯と行こうか」

「はい」

 二人はそれぞれ違う形のグラスを手に持つと額の部分を軽くぶつけた。

 カチン

 男は一気に半分までビールを飲み干すと、テーブルにグラスを叩きつけた。

「うんめえ! おっちゃんの店のビールはうめえよ!」

 店の奥まで聞こえるように言っているようだった。しかし依然として返事はない。

「そいじゃ、仕事の話をしようか」

 フィルは突然の男の低い声を聞くなり、瞬時に背筋が伸びた。


最後まで読んでいただきありがとうございます!

▶︎続きの【中編「密売人」十六】はこちら


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