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【短編】『コンピュータが見る悪夢』(前編「殺人」⑦)

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コンピュータが見る悪夢 (前編「殺人」⑦)


「そうか。今回もか――」

 上官はまるでため息をつくかのように言葉を吐き捨てた。

「今回もってどういうことだ? なにか知ってるのか?」

「ああ」

 上官が実際にため息をついたのか、回線の向こうから深い息の根の音が聞こえた。すると疲れ切った声で語り始めた。

「実は最近似たような事件が全国各地で確認されているんだ。本人の意思に関係なく、まるで神から司令を下されたかのように突然何者かに恨みを持ち始める。そして最後はその者を殺してしまうんだ。本人は殺したことすら覚えていない。まるで本当に殺していないのではないかと思ってしまうほどに。しかしホモシミュレーターからは、殺したという情報しか確認されない。結局彼らが嘘をついていることには変わりないんだが、それにしても辻褄が合わないんだ。容疑者の性格を分析してみても、殺人を犯すような動機や過去のトラウマもない。まるっきり原因がわからないんだ」

「思考をコントロールする薬かなにかじゃないのか?」

「もちろんそれも視野に入れてみた。だが、犯人の体内にいるプラズモグラフィアから情報を引き出してみても、特に薬を接種した記録はなかった」

 不意に電話の向こうからくすっと笑う声が聞こえた。

「十年前じゃ、そんなSF映画みたいなことが起こるわけないとバカ話ができたが、今やその可能性も捨て切れない時代になってきた。おかしな世の中だよ」

 電話の向こうで途方に暮れている上官をよそに、謎めいた殺人に心を引かれている自分がいた。初めは至って平凡な殺人だと退屈に感じていた事件が、蓋を開けてみれば矛盾だらけなのだ。そして原因が未だ不明であることがサムの好奇心をくすぐった。

「まあ、この件に関しては一種の多重人格の症状というのが現状濃厚な線となってる。何かがきっかけで発症しやすくなっているのでは、というのが心療内科医の見解だ」

「病気、ということか?」

「ああ、外部からの直接的な影響の可能性は限りなく低い。本人に問題があると言っていい」

 サムは自分の心の内を明かそうか明かすまいか、ホログラムに映るアダム・トーマスの顔を眺めながら躊躇していた。

「この事件は一旦――」

 そう上官が言いかけた時、サムは意を決して言葉を発した。

「おれにこの捜査をやらせてくれないか?」

 少しの沈黙がその場に漂うと、すぐに上官の荒々しい声が聞こえてきた。

「なに? おまえが捜査するだと?」

「ああ、必ず原因を突き止めてみせる」

「だから、外部の影響じゃないと言っているだろ。それにこの件はすでに他に捜査依頼が回ってる」

「そこをなんとか」

「ダメだ。いくらおまえの頼みだからってそうなんでも首を縦に振れるわけじゃない。いいか、そもそもやつらは殺人という罪を犯してるんだ。おれたちは法の番人としてやつらを逮捕するだけだ。だから捜査なんか必要ない。他にやらなければならないことが山積みなんだ」

 こうも強く言われては、さすがのサムも言い返しようがなかった。しばらく沈黙が続くと、上官は機嫌を直して優しい口調でサムに告げた。

「すまない、言いすぎたよ。今日はもう帰って女房にいいディナーでも奢ってやるんだ」

 上官はそう言って電話を切った。

 サムの目の前にはまだアダム・トーマスの純粋無垢な青年の顔が映っていた。病気にしては話がうますぎる。仮にこの青年がわざと感情を偽ったとしたらどうだろうか。他の事件もホモシミュレーターを出し抜いて殺しを行ったことになる。完璧な機械を欺く犯罪。もしそうなのだとしたら、これまでにない斬新なやり方だった。しかし、久々にやりがいのある捜査ができると思った矢先に上官に断られてしまった。やり切れない現実に唇を噛み締めた。


 夜の地下鉄の中は、一人の年老いた浮浪者の黒人男によって警戒心に満ちていた。後ろの車両から前の車両へと移動しながら、「一ドルを恵んでください」と座っている人間一人一人に声をかけていく。前の席では、五歳ぐらいの子供が母親の隣で席に膝を立て、物珍しそうにそれを眺めている。おかしな車掌とでも思っているのだろう。浮浪者が近くまで来ると、母親はチラと浮浪者の姿を見てから子供を膝の上に乗せて話しかける。

「いい? ああいう危ない人の話は聞いちゃダメよ?」

「なんで危ないの?」

「物を平気で盗んだり、盗めないと蹴ったり叩いたりするのよ」

「怖い人なんだね」

「ええ、だから話しかけられても答えちゃダメよ?」

「わかった」

 浮浪者は両目を失っており、サングラスをかけて杖で前方を叩きながらこちらへと向かっていた。席に誰もいないと素通りし、席に人が座っていると声をかけた。気配で人がいるかいないかわかるのだろうか。盲目にしては、むしろよく見えているふうにも感じた。そう思った矢先、浮浪者は自分の席を素通りしていった。

「一ドルを恵んでくれませんか?」

 年寄りは立ち止まって前の席に座る親子に話しかけた。子供が男をまじまじと見つめる中、母親は何も答えなかった。なぜおれを素通りしたのだろうか。自分がFBIであることなど気配だけでわかるはずがない。やはり男は目が見えるのではないか。しかしサングラスの奥を見ても、ただ瞼の影が映るだけだった。浮浪者は一番前の席まで話しかけ終えると、杖を慎重に床に叩きつけながら次の駅で降りていった。

 自分も四つ先の駅で降りた。家まで歩いていると退屈のあまり、仕事をサボっているのではないかという錯覚に陥った。休むために家に帰るという行為が、どこか不安を与えた。玄関を開けると、妻のナオミはソファに座ってテレビを見ていた。ナオミはこちらに視線を送ることなく呟いた。

「おかえり。仕事終わったのね」

「ああ、なんとか」

 ナオミの表情は変わらず、番組を見ているのか、それとも液晶画面をただ見つめているのか見分けがつかなかった。

「もう飯は食ったのか?」

「ええ」

「そうか」

 ナオミの声には相変わらず覇気がなかった。家の中は生活用品や食品が散らかったままだった。この汚れた空間も家に帰らない理由の一つだった。家事をするのは、結局自分なのだ。一週間溜め込んだゴミや、埃をこの手できれいにしなければならない。そう思うと、家に帰りたくなくなってしまう。妻は家事ができない。それなのに仕事もせず家でのんびりテレビを見ている。鬱という病気はなんて便利なんだと皮肉をこぼしたくなった。

 ナオミは今テレビを見ているのだろうか。なにか考え事をしているのだろうか。ホモシミュレーターで妻の心の内をハッキングしたかった。ふとアダム・トーマスという青年がホモシミュレーターを欺いたという仮説を思い出した。もし彼が嘘をついているのだとしたら、誰かを殺したいほどの恨みを日常的に隠す必要がある。しかし隠す相手というのは自分の体内に棲む見えない寄生虫であり、自分自身でもあるのだ。自分だったらどのようにして感情を己の複製から隠し続けるだろうか。サムはナオミの座るソファの後ろに立ったまましばらく考え込んだ。

 そうか。

 言葉の通り、自分自身から隠し通せばいいんだ。つまり、自分に嘘をつくということになる。自分の中で善良であるもう一人の人格を作り出し、恨みを持つ自分を存在しないふうに見せかける。そうすれば、寄生虫も機械も欺くことができるかもしれない。上官が言っていた多重人格の症状は案外間違っていないと思った。だだ、病気ではなく、病気を装っている可能性があると推測できた。

 気がつくと、ナオミはソファの上で横になって軽く笑い声を上げていた。やはりテレビを見ているようだ。一人のコメディアンによるトークバラエティ番組が流れていた。ナオミの笑い声を聞くのは久しぶりだった。すると、ナオミは自分が後ろに立っていることに気がついたのか、突然笑うのをやめた。そして今までのように無表情になり退屈そうにテレビを眺めた。

「どうしたんだ?」

「なにが?」

「なんで笑うのをやめたんだ?」

「なんでって、特に理由はないけど。面白くなくないからかしら?」

「そうか」

 ナオミの異常な行動にどこか違和感を覚えた。テレビが面白ければ笑えばいいのに。むしろ笑っている顔が見たいのに、どうしておれの目の前では笑うのをやめるのだろうか。自分が妻の笑いを妨げているのではないかと思えて仕方がなかった。

 いいや、違う。

 妨げているのはおれじゃない。妻自身かもしれない。ナオミは、鬱の症状が良くなったことをおれに悟られないようにしている。そう考え込んでいるうちに、心の奥底から激しい怒りが湧き上がってくるのを感じた。気がつくとテレビの前に立ってナオミを見ていた。

前編「殺人」⑧ に続く


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