【短編】『コンピュータが見る悪夢』(中編「密売人」⑤)
プロローグはこちら
コンピュータが見る悪夢
(中編「密売人」⑤)
フィルはただその場に立ち尽くして見ていることしかできなかった。おじいさんは再び新聞紙を顔の前で大きく広げ、店の中に小さな壁を作った。あの女性はなぜ代金を払わなかったのだろうか。払い忘れたにしては堂々としていた。まるで歯磨き粉をバッグにしまうことは当たり前のことだと言わんばかりに。おじいさんは知っているのだろうか。女性が歯磨き粉を盗っていったことを。
フィルはふと父の言っていたことを思い出した。
善か悪かなんてのは馬鹿が考えることだ。おれはおまえに良い行いをしろとは言っていない。世の中の役に立てと言ったんだ。
女性は歯磨き粉を盗むことで世の中の役に立ったのだろうか。誰かの役に立ったのだろうか。もし女性の家が貧乏だったとしたらどうだろうか。家には飢えた子供が三人いる。子供たちに食べさせるごはん代を稼ぐので精一杯の日々。父親はいない。サンクスギビングの日、仕事を終えると時刻はすでに十時を過ぎている。家に帰ると子供達は皆寝てしまっている。二人を起こして洗面台へと歩かせ、鏡張りの扉を開ける。歯磨き粉を握ると、一滴も歯ブラシに落ちない。女性はため息をついて、子供を再びベッドに行かせ、優しく寝かしつける。翌朝女性は派手な白いドレスにピンクのハンドバッグ、ハイヒールを身に纏って家を出る。お金を持っているような格好をして店に入れば、かえって店員に怪しまれないからだ。タバコを買うのはいつも盗みを悟られないための店に来た口実。あるいは自分へのご褒美かもしれない。歯磨き粉をハンドバッグに入れると、何事もなかったかのようにレジへと向かう。新聞に夢中のおじいさんは歯磨き粉が棚から一つ減ったことに気がつかない。こうして女性は子供たちのごはん代を減らさずに生活し続けられる。フィルの頭の中は、目にした異常な光景を正当化しようと必死だった。
外の世界は自分が思っている以上に悲しいところなのかもしれない。今まで想像したことのなかった人々の辛い暮らしぶりを、あの一つの盗みを介して垣間見た気がした。皆必死に現実を生きている。何から何まで良い悪いで判断していたら人々の暮らしは成り立たない。父の言っていた「世の中の役に立て」という言葉は、目の前にいる誰かを救うためなら手段を選ぶなということなのだとわかった。そして父にとって目の前にいる者は、自分だった。
一方でその自分は何かの役に立っているだろうか。誰かを救っているだろうか。と自問自答しながら店内を幽霊のごとくうろうろしていると、酒の並んだ棚まで来ていることに気がついた。目の前に置かれた父の好みのウォッカがこちらを見つめていた。フィルは一度レジカウンターの方へと首を捻った。新聞紙はあと少しで最後のページまで捲られようとしていた。フィルは咄嗟に棚からウォッカの瓶を取り出し、背負っていたリュックサックの中にしまった。再びレジの方を見ると、新聞紙は捲られていなかった。深く息を吸うと、一つ重要なことを忘れていることに気がついた。
何か他に買わなければ店を出られない。そうだ。フィルは父から買い物を頼まれていることを思い出した。先ほどの女性の一件で頭から抜け落ちていたのだ。フィルは再び元いた棚まで戻ると、女性が持っていった歯磨き粉を手に握ってレジカウンタ―へとまっすぐ歩いた。フィルはあたかも女性の盗みを自分が償うかのように、代わりに同じ歯磨き粉をカウンターの上に置き、いつものタバコの銘柄を唱えた。
「ラークのクラシックマイルドを一箱」
おじいさんは新聞紙を大きく一回、小さく一回と二度折りたたむと、カウンターの上に置いてじろじろとこちらを見た。
「おや、またお遣いか?」
「はい」
「タバコの名前、覚えられたじゃないか」
フィルは人に褒められたことに素直に嬉しくなった。
「歯磨き粉と合わせて、九ドル五セントだ」
リュックサックから財布を取り出そうと思った時、突然の窮地に立たされた。財布は、先ほど入れた大きなウォッカの瓶の下敷きになっているのだ。やってしまった――。フィルの全身からは罪悪感の混じった嫌な汗がだらだらと流れ落ち、瞬く間に顔は火照った。財布を取り出すには、ウォッカの瓶を一度外に出さなければいけない。そうすればたちまち盗みを働いたことがおじいさんに見つかってしまう。一巻の終わりだった。
気がつくと後ろにはすでに列ができている。人々は歯磨き粉を盗んだフィルに罰を与えるかのように、険しい目つきで圧力をかける。それに追い打ちをかけるようにおじいさんの右腕が呆然と立ち尽くすフィルめがけてゆっくりと近づけていく。すでにウォッカを盗んだことがバレている。そう思い、一層のこと自白してしまおうかと思った時だった。その腕は途中で止まると、目の前にあるタバコと歯磨き粉をフィルの胸元へと静かに押し出した。
「遅くなってすまんな。これはわしからのプレゼントだ。今日はまだサンクスギビングってことにしておこうじゃないか」
フィルは間一髪、警察署行きから逃れられたことで安堵に包まれながら小さく頷いた。タバコの箱と歯磨き粉を両ポケットに仕舞い込み、「ありがとう」と一言お礼を述べてから、瓶の音が響かぬようそっと店を抜け出した。外の空気は短時間で異常に発汗したせいか、寒くなかった。
家に帰ると、すぐにウォッカをテーブルの上に置いて、前に買ったタバコの残りを口に咥えた。一つの悪事による違和感を、別の悪事で抱いた違和感でもみ消そうと思った。しかしウォッカの瓶がテーブルに置かれた光景は、いつまでも家に馴染むことはなかった。やはり自分はいけないことをしてしまった。その罪悪感はみるみるうちにフィルの心を覆い尽くし、やがてタバコの灰とともに澄み切った空気と中和した。
父のせいだ。父が自分にあんなことを言ったせいだ。盗みなんかするつもりはなかった。でもあの時見てしまった。女性が平気でものを盗む瞬間を。咄嗟に自分は考えた。これは正しいことなのか、それともいけないことなのか。しかし、どこからか湧いてくる泥のように粘り気のある心の声に、まだ小さな理性は敗北した。そうだ、あの時、自分もやってみたいと、思ったのだ。目の前の女性がしたことと同じことを、やってみたいと、思ったのだ。しかし、そのどろどろとした感情の記憶は直ちに父の強い口調によって表面を覆い隠された。
「世の中の役に立て」
すぐに自分の頭は父の言葉の読解を始め、気がつくとその言葉に背中を押されてウォッカに手を伸ばしていた。父のせいでもあり、自分のせいでもあった。父はこのことを知ったら何て言うだろうか。頭を打ったり蹴ったりしてくるだろうか。それとも盗んだことを知らずに何もしてこないだろうか。そうだ。きっとバレやしない。父には何も言わなければいいんだ。フィルの目に映るウォッカの瓶は、ようやくその空間に同化していったような気がした。
父が帰ってきたのは日が沈んで外に赤い提灯が並んだ頃だった。肩に大きな箱は担いでおらず、手ぶらだった。
「買い物はできたのか?」
フィルはそれを聞いて、さっき売店を出てからスーパーへ行かずに家に戻ってしまったことに気がついた。父に打たれると思い、咄嗟に謝った。
「ごめんなさい。ベーコンとボディーソープを買い忘れました」
「――」
父は仕事で疲れているのか、何も言わずにテーブルの椅子に座った。
「このウォッカはなんだ?」
「それは、売店で間違って買ってしまいました」
「そうか」
父は瓶の蓋を開けると、ネックを強く握って口元まで勢いよく運んだ。全体のうちのクォーターを一気に飲み干すと、テーブルに底を叩きつけて唸った。
「ちょうど切らしてたんだ。よくやった」
フィルの顔からは、いつもの打たれる前の緊張が緩やかに解けていった。
よかった。
父に叱られなかった。やっぱり自分のしたことは間違っていなかった。フィルはウォッカの瓶を盗むことで初めて人生に喜びを感じた。父の言った、世の中の役に立てたと感じられた。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
▶︎続きの【中編「密売人」⑥】はこちら