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【短編】コンピュータが見る悪夢(中編「密売人」十二)
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コンピュータが見る悪夢
(中編「密売人」十二)
教室にはちらほら生徒が残っていた。週末何して遊ぶかで女子たちは盛り上がり、男子たちは誰かが発明した小型ロボットを動かして騒いでいた。終了の鐘が鳴ったあとすぐにニールがこちらへとやってきて、ゴールデンゲートパークに行こうと誘ってきたが、今日は用事があるんだと言って断った。フィルは何気なくガリ勉くんの隣で教科書を開き授業の復習をするふりを始めた。彼に宿題を頼むにはどうすればいいだろうか。白い紙いっぱいに書かれた数式をじっと見つめながら、頭の中は彼に話しかける際の文言を組み立てていた。
フィルはこれまで人に何かを頼んだことが一度もなかった。それこそ彼の役に立つことをすれば、快く承諾してくれないだろうか。何もなしに自分を助けてくれるなんて友達じゃない限り無理な話だ。ニールは、宿題なんてやらないつもりだし、彼みたく異端な存在にはなりたくない。どうにかして、このレポートをガリ勉くんにやってもらう方法はないか。フィルは彼のために何かできることはないかとスポンジの頭をちぎれるほど捻った。勉強もできないし、運動もできない。面白い遊び道具も持っていないし、お金もない。考えれば考えるほど、いかに自分が何者でもないかという現実が露呈した。
その時、父の喜ぶ顔がフィルの脳裏を直撃した。父はあんなにも自分を頼ってくれた。店から盗んできた酒をまるで永遠と島を出ない海賊のように次から次へと飲み干した。そうか――。自分にも人のためになる能力を持っていた。ガリ勉くんは何が欲しいんだろう。自分に盗めるものは限られているが、少し無茶をすれば高い商品だって盗める。自転車か? キックボードか? ガリ勉くんだから勉強に役立つものか。であればノートパソコンか? 電子辞書か? しばらく自分の世界で妄想に耽っていると、いつの間にかガリ勉くんは席からいなくなっていた。
しまった――。目を離したすきに――。
机の上にはすでにレポート用紙はなかった。
あっ。
机のすぐ横に彼のリュックサックが置いてある。トイレにでも行っているのだろうか。彼が帰ってしまう前に、どうにか話しかけないと。でもどうやって――。フィルはパニックになりかけている精神状態をなんとか制御しようと、深呼吸を高速で行った。その時、これまで身を隠していた何かが一瞬フィルの脳内で顔を覗かせた。フィルの目の先にはガリ勉くんのリュックサックがあった。教室には誰もいなかった。フィルはガリ勉くんのリュックサックに手を伸ばすと、ジッパーを全開にし、先ほど書いていたレポート用紙を探した。中には教科書やノートがぎっしり並べられ、これを毎日背負っていると思うと、どこか気持ち悪ささえ覚えた。フィルは、明らかに自分とは違う生活を送っている人間を目の当たりにし愕然とした。
まだガリ勉くんはトイレからは戻らなかった。ちょうど人類学の教科書のページの間にレポート用紙は挟まっていた。
あった!
フィルは迷いなくその用紙を自分のバッグの中にしまい、リュックサックのジッパーを閉じた。帰宅すると、いつも通り解答を隣に置くみたくガリ勉くんのレポート用紙を横に置いた。彼は今頃家に帰って自分の書いた紙がないことに気づき、慌てていることだろう。しかしフィルにはなんの悪気も感じなかった。自分が欲しいと思った瞬間、それそのものはフィルのものになると運命付けられていた。ただそれだけのことだ。フィルは今一度ガリ勉くんに心の中で感謝してペンを握った。
授業の終わりに、何食わぬ顔でレポートの課題を提出した。フィルはすでに満足げになっていた。先生はきっと驚くだろう。なんせいつも解答を写していた自分が答えのない課題をやってのけたのだから。ふとガリ勉くんの方を向くと、彼も同じく何事もなかったかのように平然とレポートを提出していた。
何かおかしい。
あの時、確実に彼の書いた課題を盗んだはず。どうしてそんな平気な顔をしていられるのだろうかと不思議に思った。授業が終わると、ガリ勉くんは動揺を隠せずにいるフィルの肩を軽く叩いた。フィルは突然のことに体が凍りついてその場から動けなくなった。
「安心して。別の内容を書いたから」
彼がなぜわざわざそう言ってくるのかわからなかった。
「なんのこと?」
「いやあ、君だろ? 僕のレポートを盗ったの」
「何言ってるんだ? そんなわけないだろ?」
「いいんだ別に。特に怒ってないから」
疑いの念のない、ただ確信の目を持った彼を相手にするのは辛かった。フィルは嘘を貫き通すか自白してしまうか迷った挙句、何も返事をすることができなかった。すると彼は再び口を開いた。
「一つだけ言っておきたいと思って――。何かを盗む行為っていうのは、君が何かを持っていない証拠なんだ。それがないから欲してしまう。つまりは君の心は貧乏だってこと。たぶん君は貧しい家庭で育ったんだと思う。だから勉強もできないし、言葉遣いも格好も下品なんだ。でも家が貧しくても心は豊かでいられる。一方で君は家の貧しさを言い訳にして、心まで貧しくなっている。そう感じるんだ。僕は何も怒っていない。ただかわいそうだと思うだけだよ」
彼はそう吐き捨てるように言葉を残すと、スタスタと教室を出て行った。フィルの頭は混乱しきっていた。彼に課題を盗んだことがバレていただけでなく、盗む行為そのものを指摘されたのだ。頭に粘り気のある血がゆっくりと上っていくのがわかった。気がつくと、右手には細い鉄製の定規、目の前には血が垂れ続けるガリ勉くんの後頭部があった。
女子生徒の叫び声と共に、瞬く間に人だかりができた。先生が駆けつける頃にはフィルはその場から立ち去っていた。赤い血と一人の生徒が殺人現場のように床に固まっていた。
フィルは無我夢中で走り続けた。ガリ勉くんは死んでしまったかもしれない。そうなると殺したのは自分ということになる。もうこの学校にはいられない。叔父がこのことを知ったらどうなるか。逮捕されるだろうか。叔父は言った。人殺しはこの世で一番やってはいけないことだと。
誰かが自分の名を呼んだ。振り向くと、学校の入り口にニールが立っていた。
「こんなところで何してんだ?」
「そっちこそ」
「ちょっと一服しに外に行ってたんだ」
「授業はどうしたんだ?」
「もちろんサボったよ。おまえはどこ行くんだ?」
「家に帰る」
「早退か?」
「まあ、そんなとこだよ」
人の後頭部を定規で刺したとは言えなかった。
「そうだ。今度キックボードの盗み方教えてくれよ?」
「キックボード?」
「ああ、前にゴールデンゲートパークで話してくれただろ?」
「いつ?」
「初めて会った日だよ」
フィルにはその話をした覚えはなかった。そういえば、意識が朦朧としていて何を話したのか覚えていなかったことを思い出した。そうか。あの時自分はこれまで盗んできたものを自慢げに語っていたのか。
「また今度教えるよ」
そう言いつつも、フィルはもう盗みをしたいとは思わなかった。どこかガリ勉くんの言葉が頭に残って、盗みをすることに対する違和感を覚えていた。それは、盗みが悪いことだと認識しているからではなく、盗みをしたことで軽蔑されたからなのかもしれなかった。
これからどうすれば良いのかわからなかった。自分はこれまで貧しい家庭で育ってきたことは間違いではなかった。欲しいものもろくに買ってもらえず、次第に欲しいものは自分で盗むようになった。高いものを買っても金持ちになれるわけではなった。やはり金持ちの家で育った者と自分との間には大きな隔たりがあった。彼の言った貧しいという言葉はフィルの胸を締め付けた。貧しいことはそんなに悪いことなのか。本当に自分の心は貧しいのか。帰り道に映る光景が全て、金を使うための商品に見えた。この世界は何もかもが金で成り立っている。金がない奴は金のある奴からものを奪う。全ては金のせいだ。金のせいで自分は彼の頭を刺したんだ。フィルは自分が犯してしまった行為の原因を突き止めようと、自分を取り巻く環境に芽を凝らし、非難の芽を探した。
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