見出し画像

高校2年生、開放病棟入院⑤

私は完全に病棟の子になっていた。
外泊に挑戦する機会も何度かあったが
いざ、外泊すると不安が強くなって
必ず泣きながら病棟に電話してた。
連泊予定でも早めに切り上げて
病院へ戻ることもしばしばあった。

両親の元への外泊もあり
これが本当に苦痛で、自分の部屋もなく
リビングで親と寝ないといけないし、
(私は親に気を抜いた姿、寝る姿などを見せるのが
とても苦手で気まずいというか、
気持ち悪いという感覚)
不安定な姿を見せられないから、
明るく笑っていい子を演じなければならなくて
それが外泊で不安な気持ちと対照的で辛かった。

危害を加えてくることのない人たち(先生や看護師さん)が
24時間いて、守ってもらえ、甘えさせてもらえる。
今まで知らなかった、
入院しなければ知る由も無かった、
そんな環境の居心地の良さを知ってしまったから
家庭環境、親子関係の不安定さや
取り繕った自分で築いてきた周囲との関係性が
急に嘘くさく思えてきて鬱陶しくて、
今までのこと、これからのことを考えては
今いる環境との落差に絶望して
希死念慮は強まるばかりだった。
どうしても生きていかないといけないなら
いっそのことずっと此処で生きていきたい
とまで思っていた。

この頃、てんかんのような発作を起こすことが
度々あり、外泊中は特に目立った。
上から引っ張られる感覚がおきた後、
突然意識を失い痙攣し、しばらくすると気がつく
という発作だった。
出先で救急搬送されたり、家でも発作を起こしたり
脳波検査をし、"てんかんのような波形がある"
と、何とも曖昧な結果で抗てんかん薬を処方された。

心も体も自分のものじゃなくなっていく感じがして
安心して過ごせる毎日を感じながら
今までの不当な扱いへの消えることのないトラウマ
先に待つ、きっと今までと変わらない元の生活への
不安が衝動性を強めていく。
今となっては言葉を綴ることができるけれど
当時は上手く言葉にできなくて伝えられなくて
"何が辛いのか分からないけど辛い"と泣くか
自傷行為で気持ちを紛らわしていた。

きっと当時から私はわかっていた。
母が"変わっている"のも
私が苦しいのは母との関係が
大きな理由であることも。
でも気づいていないフリをしていた。
認めたくなかった。

当時、毒親 という言葉はなく 思春期真っ只中。
"親が怖い"なんて恥ずかしくて言えなかったし、
"自分が悪い"と思うことに慣れていて
他責するより自責の方が楽だから
その考えの習慣がついていた。

そして本当は心の片隅で
もしかすると関係が改善するかもと、
周りの友人のように普通の親子関係になれるかもと
所謂、無性の愛というものを求めていた。
現実的ではないことも、
99.9%無理なのも分かってはいたけど、
少しの期待を持ちたかった。信じたかった。

けれども、その僅かな希望も
あっさりと打ち砕かれるのであった。

つづく

いいなと思ったら応援しよう!