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訳あり、誕生と生い立ち秘話。
こんにちは。
40歳過ぎてから楽器はじめてシンガーソングライターになった
しずくです。
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今日は訳あり、ありあり、訳があり過ぎる私の誕生と生い立ちについて書こうと思います。
1978年4月9日 O型
島根県出身
3人兄妹の末っ子
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と言うと、
「へぇ~島根県出身なんだ~。」とか
「末っ子だと甘やかされて育ったんじゃない?」とか言われる。
島根にいたのは4歳まで。
両親の離婚を期に、当時、母の兄が住んでいたことから
名古屋へ引っ越し。
「じゃぁ、両親は島根の人なの?」
「実家は島根?」
と聞かれる。
自己紹介などは、なるべく手短に
シンプルに済ませたいけれど
両親は島根の人じゃないし、実家が島根でもない。
両親は秋田県で生まれ育った。
結婚を親に反対され、駆け落ちしたと聞かされている。
父は小さい頃、養子に出されており
それを知ったのはもう少し大きくなってからだけど
父も母も働いていたので、私はお父さんの養母である
おばあちゃんが大好で
おばあちゃんに甘えて育った。
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そんなおばあちゃんとも離れ名古屋へ来てから、
夜トイレへ行こうとすると、
トイレのドアの上に、あの赤鬼と青鬼のナマハゲのお面が飾ってあって怖くてたまらなかったり
名古屋にいるけど赤みそ文化もなく
短冊切にした大根を入れる島根県風のすき焼きや、秋田名物きりたんぽ鍋を名古屋で食べ
異文化交流極まりない家庭で言語は「標準語」で育ったのだった。
だって、お母さん名古屋弁喋れないからね。
そして時々、母が実家からの電話に突如
耳コピもできないような秋田弁でしゃべり出すから
驚いたり笑ったりしていた。
島根の自然あふれるのどかな風景から一変。
名古屋へ来てから育ったのは
錦3丁目。
当時「華の錦三」とも呼ばれた歓楽街。
バブル時代真っ只中。
毎晩、酔っ払い同士の喧嘩や、強盗事件などで警察が来ては
黄色いデンジャーテープを張られていた街。
途切れないタクシーの行列。
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4歳上の姉は生まれつき足が悪く、名古屋へ来てからも入退院を繰り返して
母は女手一つで子供3人を育てるのだから
今思うと仕方ないけれど、姉のことや生活を心配する母の気持ちが捩れて
私にはとてもヒステリックで、
「お姉ちゃんはいいの、あんたは我慢しなさい!」と
いつも我慢を強いられ
当時放送されていたアニメ「アルプスの少女ハイジ」のハイジと自分が重ねて見えて
足の悪い姉はクララ、母はロッテンマイヤさん、
私の居場所はここじゃない!!と
森も海もない都会の雑居ビルの屋上で
よく一人で泣いていた。
「おばーちゃーん、島根に帰りたーい!」
ピーターパン症候群とか
サザエさんシンドロームなんて言葉を一時期よく耳にしたけれど
私はそんな自分に度々憑依するハイジの化身を
アルプスの少女ハイジ現象だと思っていた。
ハイジはアルムの山へ帰りたいホームシックなんてことばでは済まされないほど
その心の溝は深くアニメの中でも、
小さなハイジは夢遊病になっていたほど。
そんなハイジに気がついた大人たちがいて本当に良かったと思った。
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そんな小さいうちにしか島根に居なかったのなら
島根のことなんて覚えてないでしょ?と言われる。
否定したいわけでも、話を盛りたいわけでもないが
小さな私の視点から見えてた島根のことは
今でも色々と覚えてる。
海がわりと近くて、船に乗ってフグの一本釣りをしたこと
ヤマタノオロチが少し怖かった岩見神楽
汲み取り式のトイレ(いわゆるボットン便所)の穴に落ちて
おばあちゃんに抱えあげられて助けてもらったこと。
おばあちゃんが、いちごジャムを作ってくれたことや
おばあちゃんの部屋の障子越しに蛍を見て感激したこと。
幼馴染が家の前の道路で車に跳ねられた瞬間を見たこと(軽傷で済んだ)
4歳になってすぐ水疱瘡になって体中に湿疹が出たこと
お気に入りの岩の上でいつも歌って、仕事帰りのお父さんに
家まで20メートルくらいの距離を車に乗せてと泣いてせがんだこと
おじいちゃんが死んで、棺の中で目や鼻や耳にも白い綿が詰められてたこと
名古屋へ来る前に駅で電車を待つ間
最後に家族全員でバニラのアイスを食べたこと
「3つ子の魂100まで」とはよく言ったもので
自分でも、この記憶のどれかは夢なんじゃないか?と思うほど
とても鮮明に覚えてる。
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10歳上の兄と4歳上の姉。
本当は兄と姉の間に、もう1人兄が生まれるはずが
死産というかたちになってしまい
「兄妹が2人だと、どちらかが欠けた時に、残されたのが一人では可哀想だから、どうしてももう1人産みなさい。」
とおばあちゃんが何度も母に執拗に言うので
私が生まれたと聞いた。
もし2番目の兄が無事に生まれていたら
もしおばあちゃんが何度も何度も母に言わなかったら
私は生まれてなかったのかなと思うと
色々と複雑な思いがある
小学生の頃に、母からそんな話を何度も聞かされていたが
私が18歳の時に兄が亡くなって
まさかおばあちゃんのあの言葉が正夢か予言かのように現実に起こってしまうとは思わなかった。
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名古屋の都会で育った私の幼少期の遊びと言えば
幼馴染の男の子と、雑居ビルの屋上へ上って
ビルから隣のビルへ飛び移るという
良い子も、良い子じゃなくても、大人も子供も
絶対に真似しちゃいけない危険な遊び。
遊ぶところもなかったし、街や公園には
今でこそ不審者と呼ばれる、怪しい人たちがいっぱいだったから。
それに実際、当時から近所で拳銃による発砲事件や
窃盗団などが凶器を持って逃走中、
近隣の方はご注意ください、なんていうパトカーからの拡声器での恐怖のアナウンスも時々あったりするわけで
ここにも書けないほど、怖い思いもたくさんして
正直よく殺されずに生き延びてこられたなと思うほど
色んな意味でサバイバルな街だった。
でもね、そんなデンジャラスな都会の雑居ビルの屋上で
私のオリジナル曲はたくさんたくさん生まれたのだから、
たいせつな場所だったんだと思う。
島根の森をイメージしながら作った曲
「ないしょの森」は
学生の頃、誰にも言えない思いや、家族に見せられない涙を見守ってくれた屋上で作った曲。
そんな私が長年住んでいた雑居ビルが
最近、跡形もなく取り壊されてしまった。
故郷や実家がどこなのか分からない私の
なにか大事なものが無くなってしまったようで
心に小さな穴が開いてしまった気持ちです。
そんな心の隙間を埋めるのは
笑顔が怖い喪黒福造さんではなく
やっぱり音楽なのでした。
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