見出し画像

争いごとは自分にかえってくる #文学フリマで買った本

フィリピン人はフレンドリーで明るい。学校の掃除、洗濯をしてくれる方々や食堂のスタッフ、ジムに通っていたホテルの駐車場(自転車を止めていた)の警備員、プール、ビーチの監視員、トゥクトゥクのドライバー、知り合った方々はみんな名前を聞いている。えっ?名前?教えちゃっていいの?挨拶?お国柄?次に会ったときは、もうお友だちでお互い名前を呼び合っている。

貧富の差が激しく、逞しく生きている彼らの生きるすべでもあったのだろう。

文学フリマで横井庄一さんの切り絵絵本が目にとまり、著者にフィリピンと縁がある、とお話ししたらこの本を薦めていただきました。

みいちゃんと戦争 

ふたつの名前をもつ女の子のお話   かめやまえいこ

1944年、フィリピンのマリラで暮らすみいちゃんが4歳の誕生日のかすかな記憶からはじまります。戦争が激しくなり避難命令が出てマニラから山奥に逃げその中で幼い弟、両親を亡くしました。

親切なアメリカ兵のおかげで筑紫丸で姉とふたりで日本に帰り戦争孤児、引き揚げ孤児として施設に引きとられました。

大人になったらお父さんとお母さんを埋めたところに行きたい、そう決心し37歳のときにフィリッピンにはじめて行きます。

みいちゃんはフィリピンでの慰霊巡礼に10回以上参加し43歳のとき父母を埋めた場所を発見します。

フィリピンで戦争の犠牲となった日本人は50万人以上と言われていますが、フィリピン人の犠牲はそれを大きく上回って100万人以上にもなるそうです。これは決して忘れてはならないことだと思います。

あとがきより

戦争のお話しを読むのは苦しい。書くのも苦しかったと思います。だけどたくさんのみいちゃんがいたことを知ることができたことで、戦争はあってはならない、と本気で向き合うことができました。

著者の切り絵にもやさしさと哀しさと強い意志を感じられました。

被害者か加害者か、民間人か軍人か、そんな境界線がすべてぼやけ、地続きとなって弱き者が犠牲を強いられる。それが戦争なのだろう。

2024.6.23 朝日新聞  
天声人語

沖縄での集団自決での死者の6割が18歳までの子どもらであったという。中国戦線にいた経験を持つ住民の男性は「日本軍が中国人を虐殺したのと同様に、今度は自分たちが米軍に殺される」と考えて洞窟の中に火を放った。旧満州から里帰り中の女性が、敗戦国の女性がどんな目に遭うのか」を口にし、自死を勧めたという証言も残っている。

私は競うために泳ぐ。でもガザには生きるために泳ぐ人がいる。命がけでおぼれそうになりながら。

パレスチナ 競泳選手 バレリー タラン
7月28日  朝日新聞

79年前の戦争でなく、今も戦火の中にいる人々がいます。

争いごとは自分に帰ってくる。

自分もそうしたから。
あの人たちもそうしたから。

哀しい連鎖でなく、うれしい連鎖にしたい。

この記事が参加している募集