壁抜けしてもしなくっても、世界はひとつじゃないし、わたしもひとつじゃない。
75歳でトライアスロンを続けている夫と、74歳で長編小説をお書きになるランナーであり、トライアスロンもご経験のある村上春樹さん。共通しているのは同世代という他に、体力知力をそこに集中させ、メタファーとしての長距離ランナーでもあり続けることだと思います。
もちろん夫の走ることと、村上春樹さんの走ることは全然違うのだけど。
「小説をしっかり書くために身体能力を整え、向上させる」というのが村上春樹さんの第1目的で、だからこそ村上春樹さんの小説がチャーミングなんです。それは文武両道ということではなく、バランスと距離のおきかただと思います。トライアスロンの3種目をこなすには、視野を広く持ち多様性が必要なんです。「多様性」表現は村上春樹さんは好まないんだろうな。こうした言葉でなく、物語の中で語っていくのがプロなんでしょうね。
村上春樹さんの小説のパラレルワールド、2つの世界。影のある世界と影のない世界。どちらにしても世界はひとつじゃない、自分が選んで自分に合う場所を探していきたいなと前向きに思える物語です。
街とその不確かな壁 村上春樹
1985年に書かれた『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』とつながる部分があり、街の地図を見ながら楽しむことができました。
高校生の時に出会った100%の女の子と恋に落ち、すぐに彼女を喪失してしまいます。40代になっても忘れられない主人公である「私」が、彼女を追い求め、「高い壁に囲まれた街」に会いにいくピュアな想像と創造をめぐる物語です。
彼女がいる街は、影も心もありませんが自然が厳しくも美しく争いもなく穏やかに暮らしてます。閉鎖的ではありますが、守られてます。
壁って、越えなければならないってイメージがありますよね。マラソンでも30kmの壁があるし。
アスリートとしての壁について羽生結弦さんが語ってました。
村上春樹さんの小説の中の壁は越えるものでなく抜けるものなんです。なにかの瞬間にするりと、どすんと。
羽生さんに限らず、これも欲張りなんでしょうね。きてみたけど、やはり戻りたい。ここではない。いや、残りたい。
行かなければという少年もいます。その少年しかできないことがそこでできるから。
壁って超えなくっても、抜けられなくっていいんじゃないかな。守ってくれるし、そこに逃げてもいいし、闘ってもいい。自分がそこで守ってもいい。
誰にでも「高い壁に囲まれた街」はあるのかもしれない。
影を剥がされた「私」は影と「私」に分裂します。
わたしは、ふたりいます。ひとりじゃない。
そして、世界もふたつ。ひとつじゃない。
どっちが嘘か本当なんて関係ない。
ひとつのところに定まらない。変化、移動する。
トライアスロンは多様性のスポーツでもあります。ひとつじゃない。3つある。
ひとつじゃない、他の世界もある、そう思うと楽しいし強くなれる。