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#42 邪馬台国論争の根拠地を巡る~卑弥呼は大和の地にいたのか~

 3泊4日で奈良に滞在しました。初日は室生寺で1日を過ごしましたが、2,3日目は大和地方を巡りました。旅のテーマは「邪馬台国論争の根拠地を巡る」ことにあります。つまり、卑弥呼はどこに存在したのか。それを体感しに行く旅です。

箸墓古墳

 最初は箸墓古墳にいきました!
 では、なぜ箸墓古墳に行ったのか。それを説明するためにはそもそも「邪馬台国論争」とは何かを整理する必要があります。これがわかるとただの小高い丘もなにやら謎を秘めた興味深い存在に見えてくるのです。

 日本列島に文字(漢字)が伝わり、使用されるようになったのは5世紀頃からとされています。なので、それ以前は文献資料がなく日本列島にはどのような歴史があったかは発掘調査などによる考古学の研究成果を待たざるをえません。しかしながら、考古学以外にもその様子を伝える資料があるのです。それが中国の歴史書です。その正史『三国志』には「魏書東夷伝倭人条」、通称「魏志倭人伝」が掲載されています。そこに景初二年(238or239年)、邪馬台国の女王卑弥呼という人物が魏に遣いを送り、「親魏倭王」の金印や銅鏡100枚などが贈られたと記述があるのです。ただ、その「魏志倭人伝」は2000字足らずの漢文が続くのみでそれ以上はわかりません。しかし、間違いなく言えるのは3世紀前半の日本列島に邪馬台国という国家を統治している女王卑弥呼という存在がいた、ということ。


 では、その邪馬台国はどこに存在したのでしょうか。残念ながら、これは研究者の中でも意見の一致がみられないのです。でも、有力な説はあります。九州説と近畿説です。九州説は古代日本語の研究などで高名な安本美典氏などが唱えています。その根拠としては、九州から出土する鉄器が圧倒的に多いということ。一方、奈良には出土する鉄器が少ない。邪馬台国が魏に遣いを送るほど日本列島の中では強力な国家であったならば、鉄剣や鉄刀、鉄鏃(弓矢)などを大量に保有していたはずです。つまり、卑弥呼が生きていた時代の遺物が九州からは大量に発掘されるのです。
  しかし、『邪馬台国をとらえなおす』(講談社現代新書、2012)を執筆した大塚初重氏は、奈良が鉄の残りにくい土壌であり、出土が少ないのは腐食によるものだと指摘します。ですから、「鉄製品が少ない」=「邪馬台国の所在地ではない」という結論は慎重に検討されるべきなのです(大塚・2012、pp108~114)。
 それと九州説には根拠として足りないものがあります。それは「卑弥呼の墓」です。九州には卑弥呼の生きていた時代に造営されたであろう巨大な墓がみつかりません。なぜ、墓の存在は重要なのでしょうか。以下に「魏志倭人伝」の記述をみたいと思います。

卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。
(卑弥呼が死んだので、大きな塚を作らせた。直径100歩あまり。奴隷100人余りが殉死。)

『三国志』より

 このように卑弥呼の死後、大きな墓が作られたことがわかります。直径で100歩程度、かつ殉死者が100人くらい入るような大きな墓でないといけません。九州にはそのような有力な墓がないのです。(pp120~122)

 一方、奈良にはそれに該当しそうな規模の大きな墓が複数存在します。中でも箸墓古墳(奈良県桜井市)は卑弥呼の墓として最有力候補となっています。だから、箸墓古墳に行きました。

 やっと箸墓古墳に向かった理由を説明できましたが行ったところで箸墓古墳の謎は解明できません。この写真を見てください。これは箸墓古墳の前方部(前方後円墳の方形部分の正面)に立っている鳥居なのですが、明治時代に倭迹迹日百襲姫命(以後、"モモソヒメ"と略)の墓と指定されてから発掘調査はできないのです。このモモソヒメは日本書紀に記述があり、天皇家の祖先と推定されますが、実在を証明することはできていません。


纏向遺跡の発見

  卑弥呼の宮殿跡が見つかったと話題になったのがこの纏向遺跡ですが、それだけでなく、日本列島各地から人とモノの集まった痕跡が多数見つかっています。しかも、土器の流入は日本最大規模です。
 これらの情報から邪馬台国の首都だったのではないかと言われるほどです。

 今回行ってみてわかったのは、箸墓古墳と纏向遺跡は徒歩20分ほどとかなり近いということ。
 人やモノが多くあつまるこの都市から崇敬を集めたであろう卑弥呼の墓をお参りしやすい場所に建設する蓋然性がありそうな気がします。


銅鏡の存在と邪馬台国

 邪馬台国論争で重要な証拠資料とはなんといっても銅鏡でしょう。「魏志倭人伝」には、銅鏡100枚が中国から贈られたとあります。なので当時の銅鏡が発見されればそこが邪馬台国の可能性は高い。
 そこで、この旅の最後は銅鏡が多数発掘された黒塚古墳に行きました。
 黒塚古墳は先程の箸墓古墳や纒向遺跡からそれほど遠くありません。電車の移動自体は1駅で5分程度でした。(ただ、黒塚古墳の最寄り駅、柳本駅からは15分くらい歩きます。。。)


 黒塚古墳には無料の展示室があり、発掘時の様子が再現されています。三角縁神獣鏡など銅鏡のレプリカが展示されていて見応えがありました。また、黒塚古墳は登ることができます。頂上まで登ると思いの外、見た目より高く「これは相当深く掘らないといけなかったのだな」とわかります。

 そして、展示によれば、肝心の黒塚古墳で見つかった銅鏡が邪馬台国のものであるかはハッキリとわかっていないとのこと。わからないとわかり改めて残念な気持ちに。。。

今回の旅を通して感じたこと

 今回、邪馬台国論争の根拠地をめぐり、私は純粋にワクワクしました。思い出話になりますが、学生の時、地元の友達と久しぶりの再開をし、将来の夢について語り合った際、歴史学習を一生やり続けると言いました。そうすると「歴史ってもう知り尽くされてるんじゃないの?」と素朴に聞かれました。たしかに歴史の教科書という絶対の権威のようなものがありそれ以上新事実が発覚するようなことは稀であるということは一般的な感覚としてあると思います。
 しかし、わかっていないことは多い!そのことが今回改めて確認されました。当然ですが、歴史的事実は過去の遺物や資料からしか想像できません。私たちが歴史について「わかること」には限界がある。つまり、まだまだ研究の余地があるんです!邪馬台国論争はまさにその典型例です。
 そして、邪馬台国の所在地がわかればその後のヤマト政権という存在について再考が促されることになる。そうなると天皇家、朝廷という存在もまた考え直されることにつながる。これってかなり現代日本にとって重要な問題ですよね。だから、邪馬台国論争は面白い!
 
 邪馬台国に対する興味へさらなる情熱を注ぐこととなった旅でした!

【参考文献】
大塚初重『邪馬台国をとらえなおす』(講談社現代新書、2012)
佐伯有清『邪馬台国論争』(岩波新書、2006)

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