ひとまわり【掌編小説】
※本文3,605字。
※本作品はフィクションです。
「これ、だぁれ」
僕は小学生のころ知らないものを見ると指を差す癖があった。母はまたいつものように僕の名前を呼んではこっちに来るように手招きをする。
「・・・シゲヤのお姉ちゃんだよ」
「えっ!?」
母の声はいつもの厳しさとは真反対のトーンで優しくどこか懐かしかった。
「閲子(えつこ)って名前で、みんなからエッちゃんって呼ばれていたよ」
幼な心なりに絶対に訊いてはいけないことだったと、僕は瞬時に悟った。そう思うと逆に幼稚で拙い精神みたいなものが心の底から湧き上がるのを感じた。
「エッちゃんは今どこにいるの?」
「遠いお空だよ」
母はそう言うと、見たこともないような暗い表情で窓の外をジッと眺めていた。
「僕は一人っ子じゃないんだね」
「うんそう。シゲヤにはお姉ちゃんがいたの」
そう言うと視線を僕のほうに向けた。
「いつも、寂しい思いさせちゃってごめんね・・・」
僕は自然と涙が出て、エッちゃんに逢いたくなった。声すら聴いたことがないのに。
「ううん。寂しくなんかないよ」
「それなら良かった」
「・・・エッちゃん、元気だったらいいね」
どこに向けた声なのか、何に向かった気持ちなのか分からないままに僕はそう声を発した。
「あっ、そうだ」
母はこう言うと、縦長の封筒から何かのチラシを取り出して見せてきた。
「アイフォン無料交換キャンペーンって今日までだって」
急に嬉々として、でも目は笑っていないまま。僕と携帯電話ショップに行きたいようだった。
「お母さん、今日仕事休みだから」
そうだったと僕は相槌を打って軽く右膝を叩いた。母は一つ苦笑いをした。僕もつられるように笑った。
「鍵は持っているから、締めるよ」
「ごめん。お母さん鍵なくしたから、シゲヤ君に任せます」
急に権限を与えられると僕は口を真一文字に結んだ。うちは片親だからしかも男は僕一人だけだからと愚痴のように呟いた。いや、ただの口癖だったか。前へ前へと自転車を漕ぎ進む母に小学6年の僕のか細い声は聞こえただろうか。
夏の日差しがいつもより眩しい。
太陽を長い時間直視してはいけないと担任のミチコ先生は言っていたっけ。その日は盛夏だったのに涼風がほどよく吹いていて不思議な日だったんだ。円い太陽を直視しても、視力は落ちないような気がした。
「シゲヤ君、前見てちゃんと自転車漕ぎなさい」母はよそ見運転をする僕に集中するように言う。11歳はまだ子供で、出来なくて当たり前だ。成人になる18歳になるまでには前を向いて自転車に乗れるようになる。そう、しっかり前を向いて力強く生きる様に。
「お母さんこそ、車を運転している時携帯電話で話しているじゃないか」
「あれは、無線機だから」
タクシードライバーとして女手一つで僕を育ててくれた母には頭が上がらない。無線だと言われればそうだし、電話だと言えばそうだ。それこそ毎日無数の客と対峙している母にとって僕なんかは軽くあしらうだけの存在だったのだろう。扶養とはそういうもので、母にとって僕なんかは義務化された物に過ぎない。
僕がつまらない顔をして自転車を漕いでいると、母はわざと並走して来た。
「今、怒られたと思っていたでしょ?」
「ううん。怒られたいと思っていた」
「あんた、マゾだな」
僕のマゾヒストとしての目覚めは母から可愛く虐められたいという願望からきている。小学6年にして虐められることを快感としている僕は相当な早熟だったのだろう。ただ、当時の自分にとってはそれも母としては一つのコミュニケーションの一環だと思っている節もあった。それだけでは無く、僕は母が夜な夜な外出していくのを怪しんでいた。
「お母さん、少し散歩してくるから」
こう言っては、少し派手な服を着て明け方に帰宅した。たまに若いイケメンの男性が家に入ってくることもあった。でも、そんな母はいつも必死な顔をしていて獰猛な動物のように僕を育ててくれていたんだ。
しばらくしたら、携帯ショップに到着した。
自転車を停めようとしたら、制服を着た綺麗なお姉さんが店前に駆けてきて声を掛けてきた。
「いらっしゃいませ。ご携帯いかがなさいましたか?」
「え、ええっと・・・」
ハンドルを握りしめたまま、言葉に詰まる僕を見かねた母は手を優しく差し伸べるように答えた。
「この子のじゃなくて、私の携帯電話を交換しようと思って」
一瞬ハッと青ざめた表情をした女性店員は申し訳なさそうに何度も頭を下げた。
「あのぅ、アイフォン無料交換キャンペーンって今日まででしたよね?」
母は先ほどの女性店員よりもさらに恐れ多いといった表情で訊ねる。すぐさま店前に無料交換キャンペーンのチラシが掲示されており、僕のほうをチラッと見るなりホラっという風に指を差した。
自転車を置いて店の中に入ると、先ほどの女性店員より大きな声が複数こだまのように聞こえてきた。
「いらっしゃいませ!」
こう聞こえたかと思えば、別の店員が小走りでこちらへ向かってきた。小太りの店長らしき男性は異様なほどにフットワークが良く、何度も何度も大きな頭を下げた。また別の客の元へ踊るように戻って行った。すると、長身の女性店員が真顔でこちらを見つめていた。胸には『小机(こづえ)』と書かれてあった。
「お客様、大変お待たせしました。本日担当させて頂きます新人の、小さい机と書いて『こづえ』と申します」
丁寧に挨拶をした後、彼女はエエっとと言うなり名刺を差し出してきた。名刺の裏には『特技=相手の立場に立つことができること」と書かれてあった。
母は一つため息をついた。天井を仰ぎ僕を見た。
「新人さん?」
「はい。私、大学を卒業してまだ半年も経たないヒョッコです」
女性店員はこう言うと慎み深く頭を下げた。客として無料キャンペーンの為に来ている。サービスを受ける為にきたのに、逆に小机さんに何かを求められているような気がした。
しかし一転、母が携帯電話を渡すと、物静かな見た目とは違って手際良くサービスの説明を始めた。新人とは思えない仕事ぶりは先ほどまでの不安感を大きく覆していた。
「お客様、本来ならば無料キャンペーンの中でも有料になるオプションが複数ありますが、いかがしましょうか?」
キラキラとした笑顔は偽りの無いサービス業と化した奇跡のようだった。
「今日は有料オプションは考えてないですが、一応説明だけはお願いします」
母は小机さんをすっかり気に入ったようだった。あんなに人見知りで、決して愛想がいいとは言えない人間の懐に入るとは。小机さんはすごく老獪だった。
「あと、お客様動画をよく見られますか?」あらかじめ用意していた個人情報が載った紙を見ながら、慣れた様子で小机さんは質問をしてきた。
「はい。この子が動画をよく見るせいで・・・」
母は僕のほうをチラと見るなり、愛想笑いを返した。
「ご契約内容の変更をしてみてはいかがでしょうか?」
小机さんは真剣な目で母を見つめた。先ほどまでの誰からも愛される笑顔とはうって変わって、厳しい表情を向けてきた。これを言う為に、笑顔を振りまいているかのような覚悟をもった眼差しだ。
「いや、今回は・・・」
母は躊躇なのか、わざとなのか視線を下げて俯いていた。僕は小机さんを見ていた。
「今回は、いいです」
「難しいですか?」
「はい。ごめんなさい」母は軽く頭を下げた。
「ー私、今日で辞めるんです」
「えっ? はぁ?」
小机さんは悲しい表情をした。
母と僕は思わず彼女を見た。
あれほど騒がしい店内の雰囲気が一瞬だけ止まったような気がした。
一見、何の悩みも持ってなさそうな小机さんだけど仕事に行き詰まりを感じての退職であることを淡々と説明をしてきた。
「私は、前向きなんです」
彼女はこう言うとまた一つ笑った。
何の話をしていたか忘れるぐらい突然の告白に母も僕も唖然とした。
少しの間沈黙した後、母は「もう少し考えてから」と小机さんのギガ数についての提案を丁重に断った。すると、急に吹っ切れたように3人は雑談を始めた。その時に、初めて小机さんと僕は12年、つまり、ひとまわり年の差があることが分かった。そうこうしているうちに話のネタが尽きると母と僕はお店を出ることにした。
小机さんは店の入り口までついて来て見送ってくれた。当たり前の行為かもしれないけど、何か不思議な感覚だった。
「ありがとうございました」トレードマークである爛漫の笑顔を小机さんは最後まで忘れていなかった。別れ際に少しだけギュッと力を込めたように見えた。母と僕が自転車に乗って少し離れると、小机さんは手を振っていた。
「小机さん、なんでもう会えないの?」先を走る母に僕は思わず訊いた。
「お店には、もういないからだよ」
母は立ち止まって、本当の理由を説明するように優しく僕のほうを振り返った。
【了】