自己批判
こんにちは。(今回は)positiveです。
今回は自己批判について書いてみようと思います。
皆さんは自己批判をしたことがありますか?
私は結構してしまう方です。
なんなら学生時代まではそれがむしろいいことをしていると思っていました。
その理由を経験に交えてお話ししたいと思います。
私は自分に自信がありませんでした。
といっても今もないのですが、当時はもっとありませんでした。
どれくらいないかと言うと、自分の意見がすべて当てにならないと思っているくらいにはありませんでした。すごいでしょう?
でもどうしてそういう考えをしてしまったのでしょうか?
それは幼少期に家族から言われ続けたある言葉でした。
それは「お前はバカだ」。
何かに対して質問すると
「お前はバカだからもう少し頭を使え」
「説明するのが面倒臭い」
「どうしてお姉ちゃんみたいにできないの?」
等言われました。
しかも親だけでなく、姉にも祖母にも言われたのでした。
家族から総責めされて私は一種の洗脳をかけられ、
「自分は考えることができないから自分の意見は当てにならない」
と考えるようになったのです。
とても皮肉な話ですよね。
そしてこれは幼少期だけでは止まりませんでした。
小学生になり、同じ子たちと一緒の中学に行くのが退屈に感じた私は違う世界を追い求めて中学受験に挑みます。
そのためにはもちろん勉強しないといけません。
勉強に無縁な私は教育熱心な父親のスイッチを改めて入れてしまう(姉も私立に行ったので)ことになり、それをきっかけに恐ろしい人生を迎えます。
父親から毎日「勉強しろ」の連呼。
好きなものを禁止され、娯楽がなくなる。
最終手段として手を出す。
父親の手に負えず、塾の缶詰めにされる。
話すと長くなるのでこんな感じの地獄に見舞われました。
最悪です。小学生なんて遊び盛りな時期なのにこんな仕打ちをされてまで行きたいとは思わなかったのですが、父親の熱意は止まらず塾に入れさせることで一旦落ち着いたのでした。
塾に通っていた時代もそれなりに地獄でした。
学校から帰ってきてからすぐに連れていかれ、夜の10時頃まで缶詰にされていました。
休日は朝から行っていました。
個別塾だったので分からないところを聞いて教えて貰うような塾で、それなりに出来る人にはいい塾でしたが、出来の悪い私には何を聞いていいかすら分からず、聞いても分からず、途方に暮れていました。
詰まらなすぎてずっと寝たり、家に帰らず車の中でサボったりしていました。
母も先生も呆れて放任主義になっていたので黙って寝ていたらいいという感じでしたね。
なんだかんだで合格し、めでたく中学生になり、塾から解放されると思っていたのに父は辞めさせてくれませんでした。
しかも私が夢に見ていた運動部も入らせてくれず、「運動部に入ったら今以上に勉強しなくなりバカになる」と言って打ち砕かれました。
これだけは物凄く悔やんでいます。
こうして見ると自分主体で動いていることがほとんどないのです。
中学受験も姉が行ったから自分も行くものだと勝手に思っていましたし、念願の運動部も父によって剥奪され、この頃に自分の意見は通らないと思い、自分で考えることをあまりしなくなるんですよ。
人権を奪われたみたいな感じですね。本当に酷い。
仕方がなく文化部に入り、みんなが運動部で忙しなくしているときも私は図書館で引きこもってぼーっと過ごしていました。
井の中の蛙大海を知らず状態で、自分はこのままなのだろうか、社会に出て主体的に動けるのだろうか、自分とは何なのか、生きるとは何か、というまぁ思春期によく考えるような悩みにぶち当たります。
そこで啓発本や小説を読み漁るんですね。そこで読書に触れていたことは有難いことなのですが、自分との孤独な戦いで凄く苦しかったなぁと思い出しました。
急に話は変わりやっと本題に入ります。
私が厳しい自分が良くないと思った経験は2つほどあります。
1つ目が自分を厳しくしたことで相手を傷つけてしまったことと、
2つ目が母から言われた一言でした。
私は乙女座なのですが、よく書かれることとして、「真面目で努力家」「自分に厳しい」「完璧主義」「仕事人」みたいなことが多いのですがこの中にある「完璧主義」と言う言葉の意味を知らずに「完璧に近づけるように努力する」という意味で捉えてしまいました。
というか乙女座になろうとしていると言った方が正しいかもしれません。
乙女座になることが使命なんだと、思っていました。
それを通して自分を見つけようと必死でいたのかもしれません。
批判的な言葉と共に育った私はいつしか自分にも批判的になります。
「こんなんじゃダメだ。もっと自分に厳しくしなきゃ立派になれない。」
そうして事件は起こります。
現文の授業で漢字のテストが100題出されました。
クラスの女の子の採点を任された私は自分の厳しさを相手に押し付けてしまいました。
普通なら漢字が合っていたら○をするところを私は何を勘違いしたのか止め跳ねがしっかり書いていなかったら×にして減点にしていました。
自分だって点数が低かったらものすごく落ち込むのに、です。
その子に回答用紙返したらもちろんゾッとしていました。
近くにいた男子がチラッとその用紙を見て「ヤバ。」と呟いたんです。
その言葉を聞いてやっとハッと我に返ったんです。
私は取り返しのつかないことをしてしまったんだと青ざめました。
自分の厳しさでその子に傷をつけてしまったんだ。謝っても許されない。どうしよう……。
結局、謝らずに終わってしまったんだと思います。
気が動転してその後のことはよく覚えていないのです。
先生がその子を慰めていた姿を見たような気もしました。
その子の成績は先生の計らいによって認められたと思うしかありません。
それから自分のすることに恐怖を覚え、自分で判断することの怖さにも繋がりました。
未だに責任を負いたくないという気持ちがあるのはその痛まれない経験があるからなんだと思います。
これが自分を厳しくして良くないなと思った経験でした。
よく「自分に優しくできないと、相手にも優しくできない」という決まり文句がありますが、あれが身に染みた経験でしたね。
2つ目が母から言われたことでハッとしたんです。
いつも通り行きたくもない塾に連れていかれ、塾に行くまで車でグズグズしていました。
習い事の話になり、母に鬱憤をぶつけていました。
「ピアノを習いたかった」と。
お願いしたときに反対されて「あんたは長続きしないからピアノ代が勿体ないし置く場所がない」と。
うちの親は結構決めつける癖があってとても嫌でした。
だから反抗期のときに文句を垂れていました。
「もし私がピアノの練習をして一度でも間違えたら一からやり直して完璧にできるまで練習するね。それくらのやる気があったのに。」と言った気がします。
それを聞いた母はぴしゃりと「それ完璧主義じゃん。」と言い返しました。
「本番じゃ間違えてもやり直しがきかないんだよ。最後まで弾かないといけないからどう立ち直るかが問題なんだよ。一度失敗しただけで最後までひきずっている方が勿体ないよ。」
ここでやっと「完璧主義」がいい言葉でないことを知りました。
でも今でもこの議論はどちらとも合っているなぁと思ってもいるんですよ。
たしかに母の言う通り本番ではやり直しがきかない。
でも本番を完璧にやりきるために一度間違えてもやり直しのきく練習で試行錯誤することも大切だと思っています。
プロはそれをしていると思っているし、見せ物ですから少しでもいい音を奏でたいですよね。
その議論は置いておいて、私が言いたかったことは自分に厳しくしても良いことは起こらないってことなんですよ。
自分だけでできる仕事や競技、勉強は自分に厳しくした分成果はあると思います。
しかし、相手と共同作業だった時に相手を傷つけてしまう可能性もあることは念頭に入れておいてほしいんです。
それに自分を批判してばかりいると、他のことも批判的に見てしまう恐れがあります。
視野が狭くなってしまうんです。
それは母の言葉を借りたら「勿体ない」ことだと思うんですよ。
でも批判的な自分を否定する必要もないんです。
それも自己批判の1つになっていしまいますからね。
よく「自分を受け入れよう」という決まり文句もありますが、受け入れるとは何なんでしょうね。その説明もなしに言われても困ると思うんですよ。
実際、私が思いましたからね(笑)
セルフコンパッションという手法があります。
これが「ありのままの自分を受け入れる方法」になります。
本もあったりするのでぜひ読んでみてください。
私も勉強している最中なのですが、始めは全然できなかったです。
それくらい難しいことなのですが、
あるとき人に言われた正論で自分が傷ついてしまったことがあるんですね。
自分が弱っていた時に「お前が悪い」「人はお前に興味なんかない(いい意味で)」と言われたのですが、後者は悪い意味に捉えてしまってすごく傷ついてしまったんです。
だからSNSでつい「正論は時に人を傷つける。あんなこともこんなことも言われて私は傷ついた。それは自分が一番分かっている。もう何も言わないで。」と言った感じで怒りと悲しみに任せて言ってしまおうと思ったんです。
その時にふと心の中の自分が
「そうやって自分が思ったことをないことにしなくてもいいんだよ。自分を否定しなくてもいいんだよ。」って私に言ってくれて心が軽くなったんです。
言い返すことで自分を否定していたことにも変わりはなくて。
私が「正論は時に人を傷つける。」ということも”正論”だとしたら、言われた人たちと一緒なんだ、自分も同じことをしている。そうやってわざわざ自分も同じにならなくていいんだよって自分に対して声が掛けられたんです。
「自分は自分にしか救えない」とはまさにこのことを指すんだって勝手に感動しました。
セルフコンパッションは、簡単に言うと自分が弱っているときに自分なりの釈明ができることなんです。
余裕がある時に弱っている自分を想像して、どんな言葉を掛けたらその気持ちが軽くなるのかを書き出して、弱っているときに見る感じなんです。
やってみるのですが、結構それを見て「でも……」って考えてしまうんですよ。
だからできたときは感動しました。
話は長くなってしまいましたが、まずは自分を優しくしてあげてくださいね。
自分との付き合いは自分が一番長いですから。
最後まで読んでくださりありがとうございました。