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【体罰があった学校の話】小中学校時代とふぁろ。
最初にお伝えしておきます。
「なんだこんなものか」
「私の時代の方がひどかった」
「私の学校の方がひどかった」
私が伝えたいのは、私の体験の一部抜粋ではなく
「教育者が与え得る幼い人間への影響を知り、それを与える覚悟を持ってほしい」ということです。
【はじめに】
世界を知りたくなかったです。
これが普通じゃないことを知りたくなかったです。
でも、もっと他の世界も知りたくなったんです。
もっと大人と出会いたいと思ったんです。
なんでそう思えたのかわかりません。
きっと、心のどこかで期待していたのかもしれません。
私は、この人生16年間、いつも不変を求めて生きてきました。
私の目の前に広がる状況が他の人から見て最悪でも、
この状況が私には最適だと思っていました。
中学生の時に書いた日記にも
「この狭い世界が全てで、それで十分だ。他の世界なんていらない。」
と綴ってあり、昔から他の世界を知ろうとしていませんでした。
しかしどういうわけか、その時から、日本から抜け出したいと思っていたのです。
世界を知りたくないくせに。
この状況が最適だと思っていたくせに。
しかし機会に恵まれず、
ただがむしゃらにこの状況から、この日本から逃げたかった私は逃げられませんでした。
逃げられずに、そのまま日常が過ぎてゆきました。
学校では大人に罵られ、
学校の代表として参加したロータリークラブの研修では大人に馬鹿にされ、自然と、世の中にはこんな大人しかいないんだと思っていました。
【小学三年生】
明らかな男女差別をする先生に出会いました。
その先生は女子にだけ凄い優遇をしてくれました。
私は毎日努力して宿題を130%の完成度で提出し、
クラスにも貢献し、その結果先生に一番好かれ、一番依怙贔屓されました。
「困ったら先生にいつでも頼れよ」と言われ続け、そこで「期待」を知りました。
その先生には四年生の時裏切られました。
小学四年生の時、
体罰をする先生に出会い、その先生に助けを求めてもだめだったんです。
絶望しかありませんでした。
目の前で助けてと泣いても、見捨てられました。
【小学四年生】
始業式の日の、お母さんとのLINEの文面です。
「新しい先生は、スローモーション先生だよ。すごくゆっくりしゃべるんだよ。いい人には見えないよ。」
泣けてきますね。当時の私にはわかったのでしょうか。
この先生が私の親友を、怪我させた、私の中での初めての体罰教師です。
実はその体罰は、私のせいだったんです。
きっと、「それは違う」と私の周りの人は否定してくれるでしょうが、私のせいだと今でも思います。
当時、やんちゃな子が私が折った鶴(折り鶴プロジェクトという資源の無駄遣いのような、廊下に貼って右側通行を促すもの)をたくさん踏み荒らして、私が初めて学校で泣く、という出来事がありました。
その数週間後、親友がちょっとだけ、本当に少しだけ鶴を踏んでしまいました。
担任はあの出来事を気にしていたのか、それを見てカッとなり、親友の腕を掴み、ひきずってどこかに行きました。
あの子は「離して」と言っていたのでしょうか、映像は覚えているものの、音声の記憶がありません。
それが初めての体罰です。
担任に悪気はなかったそうです。
笑えてきますね。
「ふぁろさんが折って、頑張って貼った鶴を、(親友の名前)のような優秀な子が踏んだのを見て、許せなくなった」そうです。
私が、やんちゃな子たちに荒らされた時、泣かなければよかったのでしょうか。
そうすれば、親友は、その後不登校になることがなかったのでしょうか。
違う、とたくさんの人に言ってもらいましたが、私はまだそうだと思っています。
【小学五・六年生】
それでも立ち直れたのは、小学五、六年生で、恩師と出会ったからです。
親友も、私も、他の友達も、みんなを救ってくれた先生です。
しかし教育方法は宗教や洗脳に近く、私の両親や、他クラスの友達みんな、その先生やその教育方法が嫌いでした。
その上、お気に入りの子だけにこれ以上ないほどの賞賛の言葉を並べ、気に入らない子であったり、障がいを持っている子にはこれ以上ないほど差別して怒鳴りつけていたため、クラス内でもその先生が嫌いな子がだんだん出てきました。
でも当時の私と親友と他の友達は、どんなに酷い教育でも、それくらいしなければ立ち直れないほどに深い傷を持っていました。
ちなみに私はその先生が大好きです。
しかし体罰について調べているうちに、その先生のしていたことも体罰なんだ、と知りました。
つまりこの先生も体罰教師でした。
でも大好きな先生です。
いつかnoteにこの先生のことを綴ろうと思います。
【中学一年生】
中学校に入学し、生徒会選挙に出ました。
恩師に「あなたならできる」と言われたからです。
でも私は「できない」と思いました。
恩師の前ではすごく優等生であったのに、その人から離れた途端に、何の努力もできなくなって燃え尽きてしまったからです。
「私はできない。先生の思うような子じゃない」
そう思って、落ちるつもりで選挙に出ました。
しかし三者面談の際、担任の先生に「お前になんて誰も期待していない。少なくとも私は応援しません、勝手にやってください」と言われ、見事気を病みました。
(それがこの話につながります)
落ちるつもりだったとはいえ、この言葉は私に最悪な影響を与えました。
結果、落選しました。
その後落選したことをきっかけにいじめられ、本当に気が狂いそうになりました。
なんとか一年間頑張ったのですが、よく耐えたと思います。
その後卒業式までその担任に侮辱され、冷静に罵倒されました。
散々馬鹿にされました。
体罰こそしませんでしたが、私はあの先生が一番許せないです。
【中学二年生】
また体罰教師に出会いました。
女の先生で、たくさん怒鳴り散らしていました。
それでも中学生の凄いところは、小学生だと暴力を振るわれても対抗しませんが、中学生は全力で対抗するところです。
たくさん暴力を振るわれた子は、それ相応の嫌がらせを先生にしていましたし、それが笑いをとっていて、楽しかったんです。
ある意味、不幸中の幸いでした。
体罰されるような環境でも楽しんでいました。
「この環境、別に不幸なわけじゃない。楽しい。私は幸せ者だ」と思っていました。
普通の学校や先生を知らなかっただけなのかもしれませんが、本当に幸せだと感じていました。
【中学三年生】
また体罰教師でした。
この先生は微塵も楽しくなかったです。
不幸中の幸いすらなく、辛かったです。
後ろの黒板に善意で諸連絡を書いた子がいました。
しかし後ろの黒板には特定の生徒しか書いてはならないルールだったので、先生はその子に対して怒鳴り、クラスの連帯責任だとか言い出して原稿用紙三枚の反省文を全員に書かせようとしました。
なんだかんだで書かなかったのですが、名前までは書いた気がします。
全員、この先生の声が聞こえると頭が痛くなったり、冷や汗をかいたりしていました。
受験生だから不登校になれませんでしたが、きっと受験に出席日数が関係しなければ、全員不登校でした。
私の幼馴染は、その先生にしょっちゅう呼び出され、放送室で1対1で説教であったり、お話(?)をうけていました。
内容は受験のことに関して。
「お前は落ちる」だとか、「そんなお前なら落ちろ。どの高校もお前なんかいらない」だとか。
大泣きで放送室から出てきた幼馴染の顔を、今でも覚えています。
また、他の生徒にはその子の自己PRカードを隠し、「お前失くしたのか!」と怒鳴り「実は俺が持っている。お前は返して欲しいですとも言えねぇのか」と怒鳴りました。
こんなのもの隠しじゃないですか。
その子はもう何が何だかわからず黙ってしまいました。
「目を泳がすな、お前はいつもそうだ、いつもどこを見ているかわからないい」
「お前は中学校三年間何を学んだ? 何も学んでないじゃないか。この裏切り者め」
他にも散々。差別的な発言から暴力まで。
信じられないけれど、これが日常で何度も起こっていました。
【その他】
他にも、女子生徒を一人だけ呼び出して体を触る58歳の男性教師だとか、
男子だけ成績が4か5で女子は3か4の女性体育教師だとか、
生徒を家に呼んで処分された女性教師だとか、
教科書を忘れた児童の頬を平手打ちする先生だとか。
色々終わっていた小中学校だったけれど、そんな環境でも全力で楽しんでいました。
私はその環境しか知らなかったので、私にとってその環境がベストだと信じていました。
【卒業式のエピソード】
私は中学一年生で生徒会選挙に落ちてから、トラウマで一度も選挙に関わりませんでした。
その代わり、三年間学級委員を務め、学級委員長も務めました。
私の学校の制度は不思議で、学級委員長と生徒会長の立場はほぼ同一かそれ以上で、私は割と大きな権力を握っていました。
(もっと不思議なのは、受験では生徒会長の方が好印象だから、生徒会に立候補した人は「成績をとりたい人」という印象を植え付けられ、先生含む学校全体から嫌われる仕組みです。)
そのため、卒業式の卒業生代表のスピーチを任されました。
私はこういったものは得意なので、張り切ってスピーチを考えました。
提出したのは1200字。
600字で書いてきて、と言われたのに対し倍のものを提出しました。
国語の先生に「さすがふぁろさんだね。でも減らさなきゃいけないから、私が持ち帰って添削するね。」と言われ、
次の日の放課後。
赤が一色も入っていない原稿用紙を返され、直しなし? と疑問に思っていたら、「全部書き直して」と言われました。
悔しかったですが、何もわからずに書き直しました。
そして提出したらまた「申し訳ないけど、書き直して。」
理由は、「ふぁろさんは私たち先生に対して、感謝がこれっぽちもないわけ? あるでしょう? この文面からはその感謝が感じられない」だそうです。
「卒業式は、親御さんに感謝を伝える場でもあります」と卒業式練習でその先生が言っていたので、私は両親への感謝メインで書いていたのですが、それが間違いだったようです。
結果的に先生の目の前で文章を書かされることになり、悔しさと怒りで泣きながら書きました。
すると「ふぁろさん卒業が悲しいのね。先生も悲しい。わかるよ。」と言われました。
もう笑うしかなかったのですが、笑う気力もなく、その時は家に帰らせてもらいました。
ここでいくつかおかしいのが、
・体罰や差別をしていた先生に対して感謝をしろと、先生自身が言っていること。
・保護者への感謝はさておき、先生への言葉を優先しろと言ってきたこと。
・大勢がいる前と私の前とで言っていることが異なること。
・先生の目の前で指示通りに書かされたこと。
・怒りで泣いていたのに、卒業が悲しい、と解釈されたこと。の五点です。
最終的に、先生が考えた先生への感謝8割のスピーチができました。
しかしそれだけでは終わりませんでした。
学年主任(中学一年生の時の許せない担任)の先生が全く新しい原稿を渡してきたのです。
あれだけ苦労して書いた、先生への感謝8割のスピーチも水の泡。
流石に許せなくなったので、ある決意をしました。
それは「本番で一番初めの原稿1200字を読んでやる」というものです。
しかしその前の五、六回ある練習では学年主任が考えた原稿を暗記して臨まなければなりませんし、本番も暗記して臨まなくてはなりません。
結構苦労しました。
学年主任が考えた原稿は900字でした。
だから私は1200字と900字両方暗記して、混ざらないように、バレないように、練習でもベストを尽くしました。
努力の結果、全然バレませんでした。
ずっと猫被って生きてきた中学校生活の最後の卒業式では、その皮を剥ごうという勢いで頑張り、本番、見事に1200字をスピーチしました。
結果大成功。
このスピーチができるまでの過程を知らない先生方は、男性女性教師共に大泣き。
教育長も、議員も、PTA会長も、保護者も、話したことのない後輩も、全員大泣き。
式が終わった後、たくさんの知らない大人の方々に褒めていただきました。しかし、案の定「卒業生退場」で教室に戻っている時に国語の先生と学年主任に呼び出され、人生で初めて、先生に怒鳴られました。
義務教育9年間、ずっと猫を被ってきましたが、初めて怒鳴られても、怒りも悲しみも何も感じませんでした。
感じたのは達成感と、この学校から解放される喜び。
卒業式はそのような締めくくりで終わりました。
【中学を総合的に見て】
自分なりの生き方を見つけて中学校では楽しんでいました。
だからこそ、問題意識を抱えていなかったし、幸せだと錯覚していました。今でも、頭のどこかでは楽しかったな、と思っています。
どれだけ周りが、「体罰はおかしい。」「体罰がまだあるなんて信じられない。」と言っても私に響かないのはそういうことです。
その環境にすら順応して、当たり前だと信じ込んで、全力で謳歌していました。
これが一種の青春でした。
卒業した時、母校にはもう二度と関わらないだろうと思っていました。
そもそも関わりたくないし。
思い出したくないし。
楽しかった思い出だけ覚えていたかったんです。
体罰が実際にあった経験はステータスとして、経歴として記憶して、詳細は一切忘れようとしていました。
その上私は中学三年生の1月20日、受験本番1ヶ月前に誘拐されそうになったので、なおさら中学校時代の話は忘れたかったんです。
でもこの高一の夏を全てかけてこの思い出に感情抜きで向き合い、
体罰を母校から根絶しました。
たくさん向き合って、訪問して、啓蒙しました。
私はやり切りました。
【おわりに】
長く拙い文章でしたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
実は、この文章は私の日記をもとに以前まとめたものです。
今は一切の記憶がありません。
ありません、というより努力して忘れました。
しかし今も傷は残り続けています。
令和のこの時代にも、体罰はあります。
昔の話じゃありません。
暴力が全てではありません。
幼い人間と触れ、
一瞬の選択を誤ったとき。
言葉の選択を誤ったとき。
それが何十年の傷になるかわかりません。
どうかこれまでの文章を読んで、
幼い人間と関わることへの覚悟を持っていただきたいです。
教育に関わることへの、覚悟を持っていただきたいです。
教育者は、誰でもなっていい職業じゃないということを理解していただきたいです。
教育者が、志の高い人がなる職業であり続けますように。
ふぁろ
この頃は耐えて虚しく営々に
明日より昨今綴る霜が名 柔和