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【特別限定公開:前半】ヴァースノベルとは何か。

1.‌ ヴァース・ノベルの条件


「ヴァース・ノベル」。それは何か。

近頃新しく輸入されてきたこの言葉を日本語に翻訳するなら、それは「韻文小説」と訳すのが最も素朴な考えだろう。それは「verse」という英単語が「韻文」、そして「novel」の訳語が「小説」であるからだ。

だが慌てて先回りして言っておくが、僕らヴァース・ノベル研究会としては「ヴァース」という英単語は、必ずしも「韻」という訳語に縛られないと思っている。

僕らはそれをむしろ「ヴァース」=「詩文」と訳を取ることもできると考えている。

そうなれば「ヴァース・ノベル」の訳語は「詩文小説」。
するとすぐにこんな疑問を思い浮かぶはずだ。

「詩」とはなにか。
なにが「詩」であって、なにが「詩」ではないか。
「小説」とはなにか。
なにが「小説」であって、なにが「小説」ではないか。

これが僕たちが「ヴァース・ノベル」研究会を開くにあたって、何度も考えることになった根源的な問いだ。
「韻文」。僕たちは普通「韻文」で喋らないし、話さない。
僕らの日常は「韻文」ではない言葉で営まれている。

「韻文」は世界文学や海外詩に詳しい人ならわかるかもしれないが、例えばソネット形式であったり、バラード形式であったり様々な形式を理解しなくてはいけない。
だから「韻文」について学ぶのは大変そうだ。そんなふうに「韻文小説」と「詩文小説」を比べたら、「詩文小説」の方を考える方が簡単そうだ。一見そう思える。

だがそんなわけはない。「詩」とはなにか。そう根本的に考えることは「韻文」とはなにか、と考えることと比べて負けず劣らず容易ではない。
むしろ「韻」とはなにか。そう考えることは、形式の問題に還元できそうなぶん、「詩」とはなにかと考えることよりも容易なことなのかもしれない。
「詩」とはなにか。
これを考えるには形式の議論と併せて存在論と理念の問題が絡みつく。
つまり、「詩」とはどういう形かと考えることに加えて、それは何かという問題と何であるべきかと考えることが切り離せないということだ。
まして言葉の後半「ヴァース・ノベル」の「ノベル」の部分つまり「小説」については途端に前半の言葉を裏切り、この「ヴァース・ノベル」という言葉を一種の語義矛盾のような容貌に変えてしまう。

どういうことか。説明しよう。

まずあなたは「詩」という言葉を聞いて何を思い浮かべるだろうか。
あなたはそれを「小説」とは何となく違う書き方をするものだと感じ、思い浮かべたのではないだろうか。
「みんなちがって、みんないい」の金子みすゞ「わたしと小鳥と鈴と」。「自分の感受性くらい自分で守れ」でお馴染みの茨木のりこ「自分の感受性くらい」、あるいは「万有引力とは引き合う孤独の力である」と音楽の時間に歌わされたかもしれない谷川俊太郎「二十億光年の孤独」。もしくは萩原朔太郎『月に吠える』や三好達治『測量船』のような教科書に載っている近代詩人だろうか。
あるいはパルコの展示で見た最果タヒの『死んでしまう系のぼくらに』だろうか。
このどれでも、もしくはこのなかのどれでもないもの、そのどちらでもいいが、あなたの素朴な詩のイメージは、それはいわゆるふつうな感じでは書かない、行分けで書かれているなぜか原稿用紙を最後まで使い切らない、随分と紙を贅沢に使う、「小説とは何となく異なるもの」。
そうではないだろうか。

「小説とは何となく異なるもの」
だんだん「ヴァース・ノベル」という言葉のおかしさが見えてきたと思う。

ここで得られた解を代入してみよう。
「ノベル」はひとまず「小説」にしておく。
「ヴァース」=「詩」=「小説とは何となく異なるもの」これを足し合わせてみよう。
「ヴァース・ノベル」=「小説とは何となく異なるもの」+「小説」
そう、「ヴァース・ノベル」とは、「小説とは異なる小説」なのだ。
これを流行り言葉に引っ掛けてノベル・ヴァースと逆さまに書いてしまってもいいが、そうだとしても、それは「小説的な詩」。「小説的な小説とは異なるもの」。
つまり「ヴァース」と「ノベル」という二つの英単語を組み合わせて一つの言葉にしてしまうことは混ざらないものを混ぜること、それは「AではないA」という構造を持つなにかを発生させてしまうことなのだ。

「AではないA」。
「ヴァース・ノベル」には「詩」と「小説」の背理が生じている。
「詩」と「小説」はジャンルが違う。

その違いは音楽と絵画が違うという意味合いとはまた違って、言語表現というメディアは同じだがそのなかでの違いなのだ。
だから「小説」と「詩」、その二つは並べてしまえば、それはそもそも互いが自立して立つか、というよりもむしろ「小説」も「詩」もいかに一方が一方と違って自らの本質を証し立てるか。そういう力学が働くことになる。
同じ一つのものに対して違う名前は二つもいらないというわけだ。
「ヴァース・ノベル」は、言ってしまえばこれに反する運動だ。

「小説」にしても「詩」にしても、自らが他方といかに異なるかという態度で自らを証し立てる方法そのものに対して反対する運動、それが「ヴァース・ノベル」だ。
「ヴァース・ノベル」は同じ一つのものに対して違う名前は二つもいらないという事態を拒絶する。「ヴァース・ノベル」はよく言われるように「小説」と「詩」をあわせたものというより、それは「小説」ではないものと「詩」ではないものをあわせたもっと恐ろしいキメラより恐ろしいキメラ、喩えていうならそれは電子と陽電子が重なり宇宙を消滅させるほどの爆発を起こさせるものだ。

「AではないA」。
その矛盾する爆発の空間に「ヴァース・ノベル」は存在する。
「AではないA」。
「ヴァース・ノベル」は矛盾した存在だ。しかし矛盾は前提が壊れているが故にあらゆることを導くことができる。これを論理学においては爆発律と言ったりするそうだが、「ヴァース・ノベル」は確かに爆発している。「ヴァース・ノベル」は「小説」や「詩」に向かって呼びかける。

繰り返す。

「ヴァース・ノベル」は「小説」とは異なる「小説」であり、「詩」ではない「詩」だ。それはつまり「小説」でもないし、「詩」でもないのだ。ということはそれは「小説」でもあるし、「詩」でもあるのだ。いやむしろこう言うべきだ。
「小説」は「ヴァース・ノベル」だったし、「詩」は「ヴァース・ノベル」だった。

(後半公開分は明日公開!)


この続きは東京文フリ38で!

改行は「せー41」です!


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