一隅を照らすシリーズ#5〜「その一発はQue sera, sera」…ブルックナー《交響曲第7番》アダージョのシンバル
ヒッチコック監督の映画《知りすぎていた男》
「鳥」「サイコ」「北北西に進路を取れ」などで知られるヒッチコック監督作品に「知りすぎていた男」(1956年)という映画がある。この映画が僕にとってはヒッチコック監督の作品を「意識して」観た最初の作品だった。
ジャンルとしてはサスペンスになるのだろうか、ヨーロッパを旅行し、その足でモロッコを訪れたアメリカ人医師と元歌手の妻、一人息子が国際的な陰謀に巻き込まれてしまうという物語。イギリスの諜報機関の男が陰謀を企てる組織に殺害され、主人公の医師にダイイングメッセージを託したことで物語が大きな展開を見せる。イギリス人旅行者になりすましていた組織のメンバーに息子を誘拐され、息子の救出をするべく夫婦はロンドンへ。そこでさまざまな困難に巻き込まれながら、最終的には息子を助け出して一件落着…というストーリーだ。その詳細は是非動画配信などでご覧いただきたい。
この映画のなかで「クラシック音楽」や「オーケストラの楽器」が重要な役割をしている。
まずはオープニング、タイトルとメインテーマが流れる中で映し出されるのはオーケストラの演奏会での打楽器パートだ。その映像とともに、このような一文が…
この一文が、映画のクライマックス、厳密にはクライマックスの直前の出来事を暗示している。
映画の途中、陰謀を企てる組織の男が要人の狙撃を依頼したスナイパーと打ち合わせする場面がある。その場面でスナイパーにあるレコードを聴かせる。曲はイギリスの作曲家アーサー・ベンジャミンの「カンタータ《時化(しけ)》」という作品で、実はこの映画のために書かれたものだそうだ。「ターゲットに向かって、このタイミングで銃を撃てばみなそれに気が付かない。」と言って曲のクライマックス、シンバルの一撃部分を再生する。このシンバルに合わせて発砲しろということだ。そして、狙撃を実行する場所であるイギリス、ロンドンのロイヤル・アルバートホールのBOX席に行くよう指示する。
主人公たちもまた、いろいろなエピソードを挟んでロイヤルアルバートホールへ。ホールにはたくさんの聴衆が。ロイヤルアルバートホールは大きな会場で、平土間には「噴水」が隠れているそうだ。世界的に知られた音楽祭「BBCプロムス」のメイン会場として現在も多くのコンサートが開催されている。収容人数は7000人だが、このような大規模会場にも関わらず音響が良いことでも知られている。
映画内で演奏するのはロンドン交響楽団、指揮は映画全体の作曲担当で、ヒッチコック作品の音楽を多数担当しているバーナード・ハーマンだ。僕は音楽部分について雑な扱いを映画やドラマでされるのをいつも残念に思っているのだが、これは本格的な布陣なので是非注目してほしい。
話を映画に戻す。ホール内で演奏が始まり、スナイパーを探す主人公。一方、スナイパーは銃口をターゲットに向ける。楽曲はどんどんとクライマックスに向かって盛り上がっていく。そしてシンバル奏者とシンバルが映し出され、それがアップになっていく。そしてシンバル奏者の目線からシンバル越しに指揮者を見ているようなアングルになる。このアングルはあまり見ることがないもので、とてもユニークな構図だ。そして・・・シンバルの一撃の大音量とともに銃の引き金が・・・。その顛末を含めてストーリーの展開に興味を持った方、この続きは映画を観ていただけたらと思う。
映画でポイントとなるのが「シンバルの一打」。実際にピストルの発砲音を打ち消すほどのものなのかはわからないが、僕たちが刑事ドラマ(僕の世代だと「太陽にほえろ」や「西部警察」など)の「ズギューン!」といった発砲音ではなく、実際は「パーン」と乾いた音だと誰かに聞いたことがある。もしそれが本当であれば、シンバルの音に発砲音は隠れるかもしれない。どちらにせよシンバルの大きな音は会場で聴くと「目立つ大きな音」であることは間違いない。ゆえに古今東西の作曲家は「ここぞ」という場面でシンバルなどを使用することが多い。このシンバル使用のエトセトラ、「大きく打ち鳴らす」だけではない様々な使用法や代表的な曲がクラシックにはいくつかあるので、のちに筆を改めたい。
ブルックナー《交響曲第7番》の「ピーク」第2楽章、アダージョ
ブルックナーの後期の傑作のひとつ《交響曲第7番》にもシンバルが登場する。しかも全70分の中でたった一回、大きな音で1発打つ。
ブルックナーはこのようなシンバルの使用を他の曲でもするのだが、長い曲の中のほんの一瞬のために、それを担当する打楽器奏者は待機しなくてはならない。その心中についてはいつか、打楽器奏者の方に聞いてみたいと思うが、ブルックナーとしては、ここにどうしてもシンバルが必要だったのだろう。自らの理想の響きと効果を、そしてその中にある「想い」や「哲学」を表現するために・・・。
大体の作曲家の場合は、曲の後半部分など「特に盛り上がる部分」にシンバル他の打楽器を入れることが多いが、ブルックナーは少し面白い場所に配置する。それは全曲の中でもどちらかといえば「ゆっくりとした」「穏やかな」楽章である「緩徐楽章(かんじょがくしょう)」・・・それにはブルックナーの想いというのが込められている。
その「想い」とは何か?
それは、楽曲の「精神的な頂点」がそこにあることを、シンバル(とこの作品ではトライアングルも)で示しているのだ。ブルックナーの作品は彼が教会オルガニストをしていたということと関連づけられ、カトリック的な荘厳で壮大な音楽がその特徴とされている。その中でも緩徐楽章は「祈り」や「鎮魂」、「瞑想」を想起させるような、息の長い、穏やかで、時間の流れがゆったりとした音楽。その音楽は徐々に層を重ねていく。その最高点・・・そこに登場するのがシンバルだ。溢れる想い、光が最も明るく輝く、その瞬間をシンバルの一打が我々に指し示す。
この作品の作曲中に、ブルックナーの敬愛するワーグナーが亡くなる。それをこの《交響曲第7番》のアダージョ(緩徐楽章)の作曲中に知ったブルックナーは、この作品の中でワーグナーが自分の楽劇のために作らせた楽器「ワーグナーチューバ」の重奏部分を作曲し、悲しみと祈りを表現したと言われている。その部分の少し前、緩徐楽章である第2楽章が始まって約18分前後に「シンバル」が登場する。
今回はどちら?
ここまでブルックナー《交響曲第7番》における、シンバルの一打の重要性について強調してきたが、実はこのシンバル(とトライアングル)が絶対に登場するわけではないということをお伝えしなくてはならない。
それはどういうことなのか?
ブルックナーの交響曲は複数の「校訂版(エディション)」が存在する。作曲者自身の改訂が複数ある作品もあるが、多くは音楽学者などブルックナー研究者が国際ブルックナー協会や出版社とともにエディットしたものだ。その中の代表的な二つのエディション(現在は研究が進み、それ以外の新しいエディションも存在する)が「ハース版」と「ノヴァーク版」である。「ハース」「ノヴァーク」とは校訂者の名前。時代的には「ハースが先、ノヴァークが後」になる。
この版の違いについては専門の書籍が多く出ている。スコア(総譜)も両方出ているので比較してみるのも面白い。個人的な印象だが、日本のファンはこの「版」の問題にものすごく敏感で「これはハース版」「この指揮者はノヴァークか」などと会話が弾む様子を僕も演奏会場で何度か目にしたことがある。
《交響曲第7番》において、ハース版とノヴァーク版の違いは「シンバル(とトライアングル)」の部分で感じることができる。それは、それらの打楽器の「有無」だ。端的にいうとハース版は「なし」、ノヴァーク版は「あり」なのだ。それは、ブルックナーの楽譜に貼り付けたあった紙片にあった「無効」という意味のドイツ語。これが「打楽器を書き入れたが、それは無効」という解釈をしたハースと、「打楽器が書かれていたが、誰かが無効にした」という解釈をしたノヴァークの解釈の差異だ。そのような解釈の差はハースとノヴァークの版に複数見られるが、一般的にはハース版は「簡素」「シンプル」、ノヴァーク版は「壮麗」「華麗」であるという特徴を語る人もいる。打楽器の使用をひとつ取ってもその特徴が垣間見える。
果たして、今度の新日本フィルの定期演奏会は「ハース」か「ノヴァーク」か・・・果たしてどちらのエディションが演奏されるのか?チラシを一見しただけではわからない。指揮者のタイプ、最近の流行などを勘案しながら予想するのも本番の楽しみになるかもしれない。僕もそれを楽しみにしながら第2楽章の音楽にゆったり身を委ねたい。
再び「知りすぎていた男」
作品の中で、スナイパーに聴かせた音楽がブルックナーの7番でなくて良かった。もし組織の男がスナイパーに「このシンバルの部分に合わせて発砲すれば、シンバルの音で銃声がかき消される」と言ったならば・・・そしてそれが「ノヴァーク版」のレコードで、実際には「ハース版」が演奏されたならば・・・シンバルは最後まで打ち鳴らされず暗殺は失敗に終わるか、シンバルがあるはずの部分で発砲し、シンバルにかき消されずに銃声が鳴り響いたか・・・どちらにしても作戦は大失敗しただろう。ブルックナーでなくてよかったというかなんというか・・・もちろん演奏会にはスナイパーはいないので安心して鑑賞してほしい。
ある意味では、多くのクラシックファンの常連も、このコラムの読者もブルックナーの《交響曲第7番》についての秘密を「知りすぎてしまった」人ということになるだろうか。版によっての差を、僕自身も楽しむことはあるが、基本的には「どちらの版でも楽しめる」タイプだ。無頓着というか気にしない性格なのである。
「気にしない」といえば、この作品で元歌手の妻を演ずるのがドリス・デイという女性。この女性が劇中で歌うのが「ケ・セラ・セラ(Que Sera, Sera)」、「なるようになる(Whatever will be, will be)」という意味のスペイン語とされている。日本ではペギー葉山などが日本語の訳詞で歌っていた。
この歌は映画の前半部分とクライマックスに歌われるのだが、物語としてもこの歌は重要な意味を持つ。これまで「知りすぎていた男」を知らなかった方もこの「ケ・セラ・セラ」はご存知かもしれないが、実はこの有名な歌の大元は「知りすぎていた男」だったのだ。このことについても皆さんは「知りすぎていた人」になってしまった。この「ケ・セラ・セラ」というタイトル、Mrs. GREEN APPLEの楽曲にも同名の作品があるが、もちろんドリス・デイの方が遥か前の歌である。ドリス・デイの方の「ケ・セラ・セラ」の歌詞はこのようなもの。
改めて歌詞を読むと、なるほど人生の真理を突くような歌詞ではないか。「なるようになる」人生というのは決められたものでもなければ、絶望だけでも希望だけでもない。「なるようにしかならない」・・・今度演奏されるブルックナーの交響曲の版も「なるようになる」・・・それがどちらの版でも大いにブルックナーの音楽を楽しんでほしい。そしてヒッチコック映画といえば、作品中にヒッチコック監督が自ら登場する部分が必ずあり、それを見つけるのもヒッチコック映画の楽しみのひとつ。演奏会当日は多くの来場者の中から僕を見つけるのもまた、演奏会の密かな楽しみのひとつに・・・どなたかしてくれる人がいるだろうか。もし気が向いたら探してほしい。
(文・岡田友弘)
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新日本フィルと佐渡が魅せる2年目の「ウィーン・ライン」
第658回定期演奏会(トリフォニーホール・シリーズ&サントリーホール・シリーズ)
指揮・佐渡裕
トリフォニーホール・シリーズ・9月21日(土)14:00開演(13:15開場)
サントリーホール・シリーズ・9月22日(日)14:00開演(13:15開場)
【プログラム】
ハイドン;交響曲第6番 ニ長調「朝」
ブルックナー;交響曲第7番 ホ長調
指揮・佐渡裕
管弦楽・新日本フィルハーモニー交響楽団
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