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【エッセイ】駿河②─駿府城─『佐竹健のYouTube奮闘記(73)』
静岡駅で降りた。
時刻は15時半。高崎城を巡ったときと同じように、あまり時間はない。
改札を出て、駿府城へと向かおうと駅を出た。
駅を出ると、さっそくバスターミナルが出迎えてくれた。バス停には大量のバスが停まっている。
行き交うバスの向こう側には、たくさんのビルが建ち並んでいた。
「ここから歩いていけそうな場所は……」
私は辺りを見回した。が、歩いていけそうな場所はどこにも無かった。
「ありゃ、無いわ」
歩道橋や横断歩道が無かったので、渋々私は駅の方へと引き返した。もしかしたら、駅に地下道のようなものがあるかもしれないからだ。
案の定静岡駅の地下に街へと通じている地下道があったので、そこから行くことにした。
地下道の中は小さな町が広がっていた。町には飲食店や塾、新幹線のチケットを格安で売っている怪しげな店とかが広がっている。
(造りが新宿駅に近いね)
ふと私はそんなことを感じた。
新宿駅の一部もこんな感じである。特に都営新宿線(京王線と繋がってる)の改札を出た辺りには、飲食店や薬局、地方のアンテナショップとかがいくつもあった。また、新宿駅にも出たらバスターミナルみたいな場所もある。規模は新宿駅とは比較にならないくらい小さいが、どこか雰囲気的に近いものがある。だが、東京にはJRの駅と直結している大手門駅や池袋駅のケースがあるので、記憶違いという可能性も否めないが。
地上へ出た。出た場所は商店街のような場所で、たくさんの店が軒を連ねていた。土日だったこともあってか、商店街にはたくさんの人が往来している。往来の規模は、都内の小さな町くらいの人数だった気がする。
江川通りを抜けた先に大きな水堀が見えてきた。水堀には城代橋という木造の橋を模したコンクリートの橋が架かっていて、その向こう側には学校と石垣があった。
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「何だ、あれ?」
橋の右脇にあったオブジェクトに、私は目を奪われた。
そのオブジェクトは、新品のプラモデルのように余分な部分と繋がっている金ぴかの甲冑だった。
この甲冑には見覚えがある。確か、去年の大河で嵐の松潤が徳川家康を演じていたときに着用していた具足だ。
解説があったので、興味を持った私は読んでみた。
プラモデルのようになっているのは、静岡市の地場産業と地元ゆかりの偉人徳川家康をPRするためらしい。
(静岡市って、プラモデル有名だったの初めて知った)
どこの市にも「これが地元の産業だ」というものが必ず一つはある。埼玉県の川口市の鋳物や朝霞市の銅線みたいな感じで。静岡市の地元の産業は、どうやらプラモデルらしい。
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![](https://assets.st-note.com/img/1717526666365-Y6xIZbfvRR.jpg?width=1200)
城代橋を渡った先に、駿府城の建物があった。
堀を隔てた先に、白亜の壁に二層の櫓を持った巽櫓と壁伝いにある重厚な扉を持つ東御門があった。堀と道の間には橋が架かっていて、その上にはコバルトブルーの青空と新緑に染まった青い山がひょっこり顔を出している。
橋を渡って、門の中をくぐった。
門の中には広いスペースがあって、その右側にまた門があった。
(なんか既視感ある)
駿府城の東御門と同じ造りをしていた門を私は知っていた。江戸城の大手門である。
江戸城の大手門は、駿府城の東御門と同じ造りをしている。
江戸城の大手門をくぐると、スペースが広がっている。それと同じように、駿府城の大手門と同じように右側に門がある。
どちらも家康の居城であったから、造りがよく似ているのはそのためであろうか。
門をくぐると庭のようになっていた。
庭を歩いていくと、堀があった。
場内にあった堀は、どこと繋がっているといったことはあまり感じられなかった。見えないところで繋がっているかもしれないが。
堀の目の前に看板があった。私はそれを読んだ。
目の前にある堀は「本丸堀」というらしい。
本丸堀はかつてここにあった堀だそうだが、明治時代に駿府城の辺りが陸軍の基地になったので、その造成の際天守台の土で埋められたそうだ。
(よくある話だ)
前にも話したが、城跡が旧日本軍関連の施設だったということはよくある。関東城めぐり上野編で行った高崎城、安房編で行った館山城もその関係で建物や遺構が壊されていた。
城跡、特に安土桃山から江戸にかけてのものがある場所は、良港があったり、街道の宿場町といった交通の要衝であったりすることが多い。なので、街道伝いや海から敵が攻めて来たときに行動しやすいということがあるのだろう。また、防御を考えると、新たにどこかに基地を作るより既に防衛設備の整っている城跡に作った方がコスパがいいということもありそうだ。
他にも、城跡が城から基地になった要因として、
「封建主義の否定」
ということも考えられる。
江戸から明治に変わったとき、江戸的なモノは残っていたことは残っていたが、西洋の文物や思想と比較して非文明的であるなどの理由から、淘汰されていく傾向にあった。例を挙げると、神仏分離令(もしくは廃仏毀釈)や廃刀令といったものがある。
神仏分離令が出たことにより、平安時代以来共存していた神道と仏教が分離した。このとき、あまたの寺の中にあった神社、神社の中にあった寺が独立したり、廃されたりした。これにより仏教が廃れ、新たに国学や尊王思想などを主体とした国家神道が生まれ、戦後まで日本人の精神の拠り所となっていった。廃刀令に関しては、かつては武士であった士族たちが、以前まで当然のようにしていた帯刀ができなくなった。特権の象徴にして魂であった刀を身に付けることが許されなくなったのだ。これにより刀剣の需要が減っり、刀鍛冶も廃れていった。
城という前近代の遺物も、この風潮の例外ではなかった。城という存在そのものが、非文明的で野蛮な封建時代を連想するという理由で、破壊されることがよくあった。
破壊された城の跡地には、学校や軍の施設などが建てられた。かつて封建主義の象徴であった城の跡地に、近代文明の象徴である学校や軍の施設を建てる。これらのことは、時代が変わったということを民衆にアピールすることに大きくつながったことだろう。特に徳川家康の隠居所であった駿府城の跡地に基地を建てたことは、徳川の時代が終わり、新たな政府の時代に入ったことを世に知らしめるいい材料になったのではなかろうか。
時代が変わるということは、新たなものが生まれたり入ったりする。同時に、今まであったものが、淘汰されたり、別れたり、今までとは違う別の何かになったりするということなのだ。
堀をあとにし、しばらく歩いたときに、周りを柵で囲われたみかんの木があった。柵の中には看板がある。
私は看板に近づいて解説を読んだ。解説には、
「徳川家康が植えたミカン」
と書いてあった。
そしてミカンの木の左隣には、家康の像があった。鷹も一緒にいるということは、鷹狩の様子を銅像にしたのだろうか。
「何かたまにスーパーとかに行くとたまにある『生産者の顔が見えます』ってある野菜みたい」
ふとそんなことを考えたりした。このみかんの木を植えた人である徳川家康は生産者でもある。そう考えると隣にある家康の銅像が、生産者の顔に見えてしまってならない。
みかんの木とその木から成る実の生産者でこの駿府城の主であった徳川家康像から左へ歩くと、仕切りで囲われた部分があった。仕切りで囲われた部分は、一部アクリル板になっていて、その中の様子を伺い知ることができる。
仕切りの向こう側には、掘り返された部分があった。掘り返された部分には、石垣と堀と思しき部分があった。その向こう側には、掘り返したときに出た土をきれいな台形に積み上げ、シートで囲っている。
アクリル板となっている部分の隣に、解説があった。
「どれどれ」
私は解説を読んだ。
解説によれば、このアクリル板の向こう側にあるものは、天守台の発掘現場らしい。
(遺跡の発掘ってロマンあるよね)
時に埋もれた遺物や建物の跡を掘り出す。そしてそこから出た遺物について、文献などをもとに、当時はこんな感じだったとかを考える。その過程にはロマンが詰まっている。
私もそうしたことをやってみたいと思っていた。が、なかなかできず、屋敷の畑に落ちている変わった色の茶碗の欠片を拾っては集めていたことがあった。
特に目ぼしかったものが、灰色の欠片と少し緑がかかった青色の欠片だった。前者はよくわからないが、なんとなく高そうだと思った。後者は色からして青磁ではないかと考えていた。
気になったので、ある日私は拾ったものを隣の区にある埋蔵文化財センターに見てもらった。
見てもらった結果、灰色のものは唐津焼で、青い色のものは有田焼の青磁もどきではないかと言われた。いずれも江戸時代中期から後期にかけて量産されたものらしい。
これで、私の住んでいる屋敷に、江戸時代から人が住んでいたということが、考古学的に証明されたのだ。
文献や言い伝えからいろいろ考えるのもロマンがあるが、発掘の場合は物的証拠を探しあててそこから考えるのでリアリティがある。
駿府城は明治以後に陸軍の施設となったため、壊されたものも多い。そのため、本丸掘のようなそれ以前の遺構がまだ埋まっていることであろう。また、今川氏の駿府館があったのもちょうどこの辺りとされているので、まだまだ地中に何かがあるのは確かだ。
発掘調査で駿府城の埋もれた歴史が掘り起こされ、再び日の目を浴びる日を私は待ち望んでいる。
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