【エッセイ】下野②─小山政光と寒川尼の石像─(『佐竹健のYouTube奮闘記(22)』)
思川の動画素材を撮った。
祇園城の探索ができなかったのは少し不満だが、ある程度素材を撮ることができたので、3分の1くらいは良しとしておこう。そんな風に考え、再び駅の方へ行って、次の目的地へ行こうとした。そのとき、川の名前が書かれた看板の上に、
「小山政光・寒川尼像」
と書かれた案内板があった。
「小山政光と寒川尼か」
この二人の名前は聞いたことがある。少し気になったので、行ってみよう。
私は像のある場所へ歩いて行った。
堤防をしばらく歩いたところに、小山政光・寒川尼夫妻の石像があった。
直垂を着ている長く蓄えた髭の男性が小山政光、隣の女性が寒川尼だ。
「小山政光と寒川尼」
この二人について知っている人となれば、私みたいに平安末期から鎌倉前期の歴史が好きな人や研究者ぐらいしかいないので、簡潔に説明しよう。
小山政光は小山氏初代当主で、草創期の鎌倉幕府の御家人の一人。息子には、小山朝政、長沼宗政、結城朝光らがいる。長沼宗政と結城朝光に関しては、昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも出ていたので、知っている人も多いのではなかろうか。
寒川尼は小山政光の妻で、八田知家の妹にあたる人物だ。若いころは源頼朝の乳母をつとめていた。
有名な話では、頼朝の挙兵を聞きつけて、数え14歳の結城朝光と一緒に、隅田宿にいた頼朝のところへあいさつに伺ったというエピソードがある。
(寒川尼の像、あまり尼感が無いな)
二人の像を見ていて、私はふとそんなことを思った。
法衣も着ていないし、出家後の北条政子みたいに坊主頭でもない。また、出家した女性特有の「尼そぎ」というセミロングにも似た髪型でもない。出家前の若かりし日の姿をイメージして作られたのだろう。
小山政光については、なぜ短刀だけ青銅で作られているのかが謎であった。きっと、石像を作った作者の何かしらの意図があるのだろう。
像を見たあと、近くにあった東屋で昼食を取って、先ほど歩いた道を戻って駅へと向かった。
「城にいけないのは、少し後味が悪いな」
駅に戻った私は、そんなことを思った。
関東城巡りと言っているのに、結局城を見ることができなかった。これでは、下野の城を見ることなくお隣上野へ行かねばならない。どうにかしなければ。
私はポケットからスマホを取り出し、Google Mapで行けそうなお城について調べた。だが、どこも駅から離れていて、行きづらい。
(どうすればいいんだ……)
このままでは下野の城にはどこにも行けないまま、関東城巡りの旅は終わってしまう。企画が頓挫してしまうような危機が、早速訪れてしまった。
行けそうな場所を私は必死に探した。だが、どこの城も、山間や田んぼのど真ん中にあって、行きづらい。
(このまま旅が終わってしまうのか……)
旅を諦めようとしていたとき、佐野市の方に駅から近い「佐野城」という城を見つけた。
「お、ここはいいね!」
私は佐野城へ行こうと決めた。佐野駅の立地は、駅から歩いてすぐ。前の章で、厄年だからろくなことがない、と毒づいていたが、天は私を見捨てていなかった。
「いざ、佐野へ」
そう思って再び改札を通り、両毛線に乗ろうとした。だが、時刻表を見ると、電車が来るのは、13時51分だった。
「ちょ、ちょ、長すぎない!?」
このときの時刻13時ちょうど。51分ともなると、一時間弱待たされることになる。
「どうしたらいいの!!」
と叫びたくなりそうだった。やっぱり事はそう上手くはいかないらしい。
とりあえず時間を潰すため、どこかで待てそうな場所を探した。幸い改札内に喫茶店があったので、そこに入って時間を潰すことにした。
(続く)
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