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【エッセイ】武蔵(東京)⑤─三つの番所、そして善政と平和の象徴天守台─(『佐竹健のYouTube奮闘記(36)』)

 上野公園の散策をした次の日。私は都営三田線に乗り、大手門駅を降りた。

(やっぱり武蔵国は移動が楽でいい)

 特に東京は。戸惑うこともなく、電車で1時間待たされるわけでもない。家から近いから、空いた時間にどこか巡ることができる。

 場所によっては、埼玉や千葉、神奈川への行き来も簡単にできるところもある。

 大手門駅を降り、地上へ上がると、目の前には道幅の広い国道が走っていた。道幅の広い国道には、車が右から左へ、左から右へと、流れるように次々往来していく。

 歩道も広く、スーツを着たサラリーマンから、上には着心地の良さげなTシャツ、下には上のTシャツと同じ素材でできているであろう短パンを履いたランナーが次々往来している。もちろん、私同様皇居へ行く観光客の姿もそこにはある。


 信号を渡り、大手門へと向かった。

 大手門には警察官がいた。おそらく皇居を守る皇宮警察の人だろう。

 江戸城へ入るときは、ここでカバンの中身をチェックしなければならない。江戸城の跡といっても、ここは天皇陛下のおわします宮城の一部なのだから。

 チェックを済ませ、大手門をくぐって、皇宮警察の施設や三の丸尚蔵館がある三の丸を通り過ぎていくと、小さな小屋が見えてくる。

 この建物は、同心番所と呼ばれている。江戸城最初の関門だった場所だ。もとは大手門の枡形にあったのだが、後に現在の場所へ移築された。

 江戸城に登城する大名や一部の幕臣、勅使はここで最初のセキュリティチェックを受ける。また、御三家以外はここで駕籠を降りなければいけないと決まっていた。

 同心番所から少し歩くと、長屋風の建物が見えてくる。この長屋風の建物は、江戸城第二の関門百人番所だ。

 百人番所は、伊賀、甲賀、根来衆、二十五騎組の四組が100人ずつ警護の任に就いていたことからそう呼ばれている。

 二十五騎組の詳細についてはよくわからない。だが、忍者部隊で知られた伊賀や甲賀、和歌山の凄腕鉄砲集団である根来衆が警備をしているので、それだけでもどれだけ警備が堅いかがよくわかる。

(とりあえず、本丸行きたいね)

 一刻も早く本丸へ行きたい私は、汐見坂を経由して本丸へと向かった。

 本来であれば、百人番所の長屋のあるところから少し歩いた先にある、大番所を通らねばならないのだが。

 大番所とは、江戸城本丸へ至る場所の最後の関門。身分の高い同心から、最後のセキュリティチェックを受けた。ここでのセキュリティチェックを終えたら、やっと江戸城の本丸へと入れる。

 江戸城の二の丸はカットすることにした。二の丸は自然あふれるいいところなのだけど、ここまでしっかりやっていると、ものすごく時間がかかってしまうと判断したからだ。時間があったら、二の丸の菖蒲田に行きたかった。ロケ時は菖蒲の花が見ごろを迎えていたので、きっときれいに咲いていたことだろう。


 本丸へと入った。

 かつて本丸御殿があった場所には、一面芝生が広がっていた。北の方には石垣だけになった天守閣の土台がある。

(それよりも、広いな……)

 どこの城よりも広い。さすが、約260年もの間日本の政治の中心地であっただけの威容がある。江戸時代にはこの広い土地に御殿があったのだから、さぞ壮大なモノだったろう。

(浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかった松の廊下も、女の園大奥もここにあったんだね)

 江戸城と聞いて、時代劇でよく出てくる二つの場所を思い出した。松の廊下も大奥もここにあったと考えると、歴史好きの一人として、非常に胸が高まる。

 後で調べてみたのだが、江戸城の本丸は、3つのエリアに別れていた。

 まず、最初にあるのは、表と呼ばれるエリア。

 表では、主に政務や儀式が行われていた。どんな部屋があったのか、具体的な名前を上げると、白書院や黒書院だろう。他にも、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかった松の大廊下もここにあった。

 中奥は将軍が寝起きなどをする日常生活の場がここにあった。いわゆるプライベートな空間というやつだ。

 一番奥にあるのが、あの大奥だった。

 大奥には将軍の妻が暮らす御殿や、奥女中が暮らす長屋などがあったとされている。中奥とはお鈴廊下で結ばれていたらしい。

(そういえば、大奥って何回もドラマや映画になってるよな)

 大奥というワードが脳裏に横切った私は、ふとそんなことを思った。

 中学生のときくらいに、大奥を題材にしていたドラマがTBSで放送していたことがあった。見てはいないけど、番宣を見た記憶では、確か堺雅人と多部未華子が出演していたものだった覚えがある。あと、今年の初めだったかにも大奥を題材にした時代劇をNHKで放送していたと聞いている。

(今度見てみようかな)

 見たいものが増えた。もし近所のGEOとかに遭ったら、借りてみてみようかな。


 芝生広場を見ながら、私は天守台の方へと歩いて行った。

「天守台」

 ここにかつて、江戸城の天守閣があった。大きさは60メートルほど。黒色の壁が特徴的な五層の天守閣だった。平屋が普通だった時代にこんな大きな建物があったとなると、さぞインパクトがあっただろう。

 だが、江戸城の天守閣は、4代将軍家綱の代に起きた明暦の大火で本丸御殿とともに焼け落ちた。明暦の大火については、お焚き上げをしていた振袖に引火して起きたことから、振袖火事なる異名がついている。

 大火のあと、天守閣再建の話が持ち上がった。加賀の前田家が土台となる石垣を築くところまで、工事は進んでいた。だが、会津藩主で家綱の補佐役をしていた保科正之という人物が、

「天守閣の再建よりも、江戸の復興を優先した方がいい(意訳)」

 と言った。彼の発言により、江戸城の天守閣再建は中止されることになった。幕府は浮いた予算で、幅の広い道広小路や空き地を設けるなどの火事対策を行った。

 余談ではあるが、都営大江戸線の上野御徒町駅を降りた先に「上野広小路」という道があるが、これは江戸時代に行われた火事対策の名残でもある。

 彼の死後も天守閣は再建されることはなく、そのまま1868年の大政奉還に至り、江戸幕府の瓦解(がかい)を迎えている。天守閣が再建されなかったことは、民を思う保科正之の心だけではない。戦国の気風が残る「憂き世」から、天下泰平の江戸時代へと時代が本格的に変わった平和の象徴でもあるのだ。

(『武蔵(東京)⑥─江戸城(前編)』─に続く)


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佐竹健
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