【歴史小説】第70話 忠実と頼長④─和解─ 『ひとへに風の前の塵に同じ・起』
1
奈良で別居をするようになってから、私は頼長とやり取りをすることがなくなった。もちろん頼長の方も、私に近づくことはない。
それでも私がこの手で育てた子。離れて暮らしていると、元気にしているかとか、しっかり食べているか心配になる。「ごめんなさい」と書かれた手紙を送ろうかな、とか考えてみるけれど、拒否されたらどうしよう? と考えると少し怖い。
あれこれ考えていると、帝が崩御なされた、という知らせが入ってきた。前関白として、葬儀や次の帝を決める会議に、私も出席しなければいけなくなったので、老体に鞭を打って京都へと向かった。
京へ行く準備をしているときに、空き時間に頼長に話しかけてみよう、と思い立った。
よほどのことがなければ、もう京へ行くことはないだろうから。だが、いざ話しかけようとすると、何を話すのか忘れてしまう。悪態をつかれたらどうしよう、とか、無視されたら傷つく、といった、臆病な妄想ばかりが頭の中をぐるぐる回る。若いころは勢いだけでも素直に言いたいことを言えたのに、年を取ったら怖くなって言えない。年を取るとろくなことがない。
結局、会議や葬儀があった数日間は、頼長と話すことなく過ぎていった。
(このまま、ごめんなさい、も言えずに終わるのは嫌だ)
奈良へ帰ったとき、私は自分の臆病さを恥じた。
無視されたり、悪態を吐かれたりして傷ついてしまうのが怖い。でも、またやり直せるのであれば、やり直したい。後先が無い身だから、なおさらそう思う。
それに、奈良から京まで行くのは体力的にしんどい。だから、誰かから頼長の様子を聞こうと考えた。
誰を頼ろうか考えてみる。
新院はあまりに恐れ多い。為義もいいが、彼は彼で、屋敷の警護に忙しいし、罪人の為朝の監視もしないといけない。そうなると──。
頼長の親友公春が思い浮かんだが、もう既に鬼籍に入っている。長男助安も考えてみたが、新帝暗殺未遂で頼政に捕まってしまった。だから、次男の信安にしよう、と私は考えた。祐筆に文を書かせ、使いの者に届けさせた。
約束通り、信安は奈良にある屋敷にやってきた。
別居に至るまでのいきさつ、頼長の様子を私に教えてほしい、と私は信安に話した。
最初は複雑そうな顔をしていた信安。だが、気まずいんだ、ということや、京から奈良までの往復は体力的にきついことを話したときに、
「わかりました」
と返事をしてくれた。
信安が来てから二日後。手紙が届いた。
そこには信安の字で、
「左府殿はお元気です」
と書かれていた。
信安からの手紙を見たとき、私は、ホッとした。元気に風邪を引くこともなく、上手くやっているようだからだ。
次の日も、そのまた次の日も、この奈良の屋敷へ、頼長の安否が書かれた手紙が届く。
元気です、という文をもらったときはホッとした。前の院に顔がコブや青あざだらけになるほど殴られたり蹴られたりしたと聞いたときは、眠ったときと同じように回復を祈った。そして、新院の屋敷で保護され、目を覚ましたことを知ったときは、目が覚めたときのように、安堵の涙を流した。だが、前の院が崩御なされてから、信安からの便りは絶えた。
それでも私は、頼長はきっとどこかで生きている。そう信じて今日まで過ごしてきた。
だが、残念なことに、こうして生首となって、頼長は目の前に現れてしまったのだ。
2
「頼長、不甲斐ない父親でごめんな……」
白く、しわくちゃな顔に涙を流しながら、忠実は息子の首の入った桶に何度も語りかけた。
「臆病で、不甲斐なくて、不器用な私のことでも、お前は愛し、尊敬してくれた。心の奥底から、無条件に私を必要としてくれたのは、お前が初めてだったんだよ」
忠実が流す涙は、狩衣の袖を濡らし、吸い切れなかった涙は雫となって、床へと滴り落ちてゆく。
忠実は宇治の屋敷にいた。何度も見た庭、そして築地の向こう側から見える山々。どれもこれもが懐かしい。
感慨深い気持ちでそれらを眺めていると、後ろから、
「父上」
と声をかけられた。
落ち着いた少し低い声。もしかして、頼長か!? そう思い、忠実は後ろを振り返る。
後ろには生前と同じく、黒い束帯を身にまとった頼長の姿があった。
「頼長、お前なのか?」
驚いた忠実は聞くと、頼長は首を縦に振り、そうです、と答えた。
慟哭した忠実は、
「ごめんな、不甲斐ない父で」
と言って跪き、庭の白州に頭を思いっきり叩きつけた。
謝る父を見た頼長は、
「謝るのは私の方です。父上。私が父の忠告を聞かなかったから、こうなりました。自業自得です」
父と同じように頭を叩きつけ、謝った。
「わかればいいんだ。表をあげなさい」
忠実の許してもらったあとも、頼長は頭を下げたまま続ける。
「一族の、そして自分の夢を叶えたくて、私は必死で何が大事なのか、見失ってしまいました。でも、院のような広い心の持ち主、為義や信安のような信頼できる仲間たちと出会って、気づきました。だから、悲しまないでください、父上。もう貴方の涙は、見たくありません」
頼長は頭を上げた。
「我ながらにいい子を持ったものだ」
嬉しさにさらに涙を流す忠実。左の袖で涙をぬぐいながら、右手を差し出す。
頼長は父の手を取った。が、感覚がどんどんうすくなっていく。
「もう時間がないようです。最後の最後のわがままですが、聞いてくれますか?」
頼長はそう聞くと、忠実は、うん、とうなずく。
「せめて最後の最後だけでも、笑顔で見送ってくれませんか?」
「ああ」
忠実は涙を流しながらも、薄れゆく頼長のために笑顔を作った。
「ありがとう。またいつか、会いましょう」
そう言い残し、頼長は透けるようにして消えていった。
「頼長!!」
忠実は目を覚ました。
目を開けた先にあった光景は、先ほどの思い出の詰まった宇治の屋敷ではなく、闇夜に包まれた奈良の別荘だった。
「夢か」
そう思い、再び床についた。が、誰かが手を握っていたかのような温もりがあった。
「来てくれていたんだな、頼長。彼岸でも、しっかりやるんだぞ。父ちゃんも近いうちに来るからな……」
3
夏の暑さが和らぎ、白いススキの穂が垂れ始めたころ。
近衛殿では、頼長の四十九日法要が行われていた。
かつてここは近衛帝の暮らしていた屋敷であったが、死後忠通が相続し、現在では息子たちと暮らしている。
頼長の骨が入った骨壺の目の前では、僧侶たちが頼長の冥福を祈り、熱心に読経をしている。
法要に参加した忠実は、頼長の冥福を祈るため、焼香をした。
法要が終わったあと、忠実は足早に長男の屋敷を出ようとしていたとき、
「おや、父上お久しぶりです。どうして、私の屋敷に来たのですか?」
忠通に声をかけられた。
嫌そうな表情で忠実は、
「お前のためなんかじゃない。頼長のために来てやったんだ」
いつものように悪態をついた。
「それでもいいですよ」
呆れた表情で忠通が言ったとき、後ろから、
「父上、こちらの方は誰ですか?」
元服したばかりの、まだあどけない感じを残した少年が聞いてきた。シャープな顔立ちは忠通と頼長によく似ている。
「基実、こちらの方はお前の祖父さんだ」
「よろしくお願いします」
礼儀正しく礼をしたあとに、ハリツヤのある手を差し出す基実。
「誰がお前と握手なんかするか」
握手を嫌がる忠実に、忠通は言う。
「握手してあげてください。こうして祖父と会うのは初めてなので」
「仕方ないな。頼長の葬儀をしてやったから、特別にやってやる」
嫌々ながらも、忠実は基実に手を差し伸べた。
しわだらけの手を、基実少年は優しく握りしめた。
こうして、藤原摂関家の親子問題は、ほんの少しではあるが、解決へと近づいたのだった。
忠実はこの6年後に息を引き取った。享年85歳。大往生であった。
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