【エッセイ】伊豆②─堀越公方の館─『佐竹健のYouTube奮闘記(68)』
「東海地方」
これが、関東に次ぐ新たな城めぐりの舞台である。
愛知県を筆頭に、岐阜県、そして現在私がいる静岡県がこの範疇に入る。最近では三重県もこのカテゴリーに入れられることがある。
東海地方は一般的には、上にある山梨県や長野県、岐阜県の三県と、福井県、石川県、富山県、新潟県といった北陸地方を含めた「中部地方」の一部にもなっている。
「中部地方という概念は、ちょっと強引過ぎないか」
私は時折そう思うことがある。あまりにも大ざっぱなくくりで、文化とかその辺のことがないがしろにされがちだからだ。そのため、
「中部地方は団結力に欠ける」
と言われるのもわかる気がする。山梨県は東京の影響がかなり強いし、北陸、特に富山、石川、福井の三県は京都文化圏である。
「では、静岡と新潟、長野はどうなのか?」
この3県は文化の緩衝地帯の役割を果たしている。地理的にちょうど京都文化圏と名古屋文化圏、関東文化圏のど真ん中に位置しているからだ。
静岡の場合は、今いる伊豆が関東文化圏で、駿河がその緩衝地帯、遠江の辺りが名古屋文化圏となっている感じだろうか。歴史的経緯を見ると、大体そんな感じに分類できる。なお、長野についてはよくわからない。
問題は、新潟である。
新潟は東北、関東、北陸、はては京都文化圏のかち合う場所となっている。
なぜ、新潟がこのような様相を呈しているのかについては、やはりいろんな地方に面しているということ、江戸時代に北前船が通っていたことが大きい。
新潟県は北と東は東北、南は関東と信州、西は北陸に接している。また、寺泊や新潟といった港があることから、交易の関係で京都や東北といった遠方からも人が来る。佐渡に至っては、昔から罪人が流される場所としてよく知られていた。承久の乱に負けた順徳院や世阿弥が流された話はよく知られているであろう。
また、新潟県、特に越後は、古来大和民族と蝦夷の住まう地域の境目でもあった。正確な位置は分からないが、古代に淳足柵や磐舟柵という城柵があったことがその事実を証明している。
このような文化的背景から、新潟県は地域によって方言や文化が違うのであろう。ちなみに境目と言える場所を規定するのは難しい。
中部地方は太平洋側と日本海側で大きく違うということ、そして、東京文化圏から名古屋文化圏か京都・大阪文化圏に切り替わる緩衝地帯となっている場所があること。この二つを薄っすら認識してもらえればいい。
伊豆箱根鉄道に乗っているとき、「伊豆仁田」という駅を通過した。
「仁田か」
この地名に私は聞きおぼえがあった。「伊豆」と「仁田」というワードで思い浮かんだ人物がいる。仁田忠常である。
仁田忠常は平安末期から鎌倉時代前期の武士である。源平の争いでは源氏方に着き、草創期の鎌倉御家人として活躍した。だが、源頼家が危篤状態となったときに和田義盛に呼び出され、
「時政を討て!」
と命じられた。
また、時政からも呼び出され、
「比企能員を討て!」
と命じられた。
将軍の命と執権の命。どちらを取るか考えている間に、忠常は謀反の嫌疑をかけられ、殺されてしまった。
『鎌倉殿の13人』では、思い悩んだ末に自殺したという展開だった。
将軍と執権の板挟みになった仁田忠常という人物であるが、実は富士山にある人穴という曰く付きの場所を探検した勇者である。
「伊豆仁田」という駅名を見て、この近辺は仁田忠常と何か関係があるのか? と考えた。
後で調べていてわかったのだが、仁田忠常の「仁田」はこの辺りの地名のことを言うらしい。やっぱり、この辺りが仁田氏のルーツだった。
韮山駅を降りた。
先ほど買った切符を改札に遠し、駅を出る。
今回の向かう城は、北条氏館。鎌倉幕府で執権をやっていたあの北条氏が、伊豆にいたときに暮らしていた考えられる屋敷である。
厳密に言えば城ではないだろ? という声が上がってきそうだから言っておくが、一応館があったということで城ということにしておく。また、小説の方の兼ね合いもあるので、宣伝も兼ねてここにすることを決めた。
韮山駅を抜け、西へ歩くと、目の前には広大な田んぼと山が広がっていた。山には電気を送るための鉄塔が立っている。
山と鉄塔。この二つの組み合わせを見て、『エヴァンゲリオン』に出てきそうな風景だなと思った。劇中でよくこんな感じの場所が出ているためだろうか。特に三号機に寄生した第13使徒バルティエル(漫画版では第8使徒、新劇場版では第9使徒となっている)との戦いの舞台に少し似ている。
バルティエルとの戦いの舞台は、山と鉄塔があって、その下に水田が広がっているといった感じであった。夕焼けのため陰になっていて、その陰がこれから起きる悲劇を予感させている。
悲劇の内容については、アニメ本編を見てもらえるといい。あと、新劇場版と漫画版を見比べてみるのもいい。大筋はアニメ版と同じであるが、ストーリの細かな展開や設定が違うから。
道路を渡り、古風な建付けの建物が密集している集落を少し歩くと、広々とした空き地が見えてきた。
空き地は一部フェンスで囲われ、その中に老木が2、3本立っている。向いも同じで空き地である。
その空き地についての案内板が、老木のある空き地にあった。
案内板によると、この空き地には、堀越公方の屋敷があったらしい。
堀越公方とは、本来新たな鎌倉公方となるべきであった足利政知が、伊豆で居を構えていた場所である。
第四代鎌倉公方足利持氏は、六代将軍義教と争い、敗れた。その後下総の結城氏朝が、春王丸と安王丸という持氏の遺児を担ぎ上げ、反乱を起こしたが鎮圧された。これで、鎌倉公方家は滅亡したことになった。
この後義教は宴に招かれたところを赤松満祐に討たれ、暗殺された。その後7代将軍に義勝、8代将軍にあの銀閣寺で有名な義政が就任した。
義政は自身の兄である政知を新たな鎌倉公方として送り込もうとしていた。が、関東では新たな鎌倉公方が誕生していた。第五代成氏である。
成氏はまだ6歳と幼かったので、代わりに関東管領である上杉家が関東を治めていた。だが、次第に上杉家と反りが合わなくなっていき、身の危険を感じて下総国の古河へと逃れた。そして古河公方と呼ばれるようになる。
南関東に勢力を持つ上杉家と北関東に勢力を持つ古河公方家。このことで、関東は真っ二つに割れた。
また、上杉家も割れた。本家である山内上杉家と分家の扇ヶ谷上杉家が対立していたのである。
この混沌とした関東の一連の争乱は「享徳の乱」と呼ばれ、戦国時代の発端となった出来事の一つとして語られている。
関東情勢が荒れていることを知った政知は、鎌倉へ入らず、まだ戦国の余波が少ない伊豆へ居座ることとなった。これが堀越公方のはじまりである。
堀越公方は二代目の茶々丸が北条早雲(伊勢宗瑞もしくは伊勢新九郎)に討たれるまで、ここ伊豆堀越を拠点としていた。
「足利茶々丸」
一見可愛らしい名前の子供に見えるが、後で調べてみたらなかなかのクセ者であった。
牢に閉じ込められていたが抜け出し、嫡男の潤童子を殺し、家督を簒奪したのである。阿新丸といい、北条時行といい、鎌倉末期から室町の子供たちは反骨精神が凄まじい。
「ナメられたら殺す!」
中世という時代の気風を一言で表現するとこのようになる。殺られる前に殺らなければならないという空気感が、歴史に名を残す強い子供を育む土壌となっていたのだろうか。
中世の強い子供の一人で、二代目の堀越公方となった足利茶々丸だが、家臣との間が上手く行っていなかった。それに潤童子の弟であった清晃が、第11代将軍足利義澄となったことで不利な状況となる。
そこへ早雲は今川氏や葛山氏から兵を借り、簒奪者足利茶々丸を倒すべく、伊豆国を攻めた。
足利茶々丸のその後については、討ち取られたとか、逃げたと言われているが、その後については定かではない。
(それにしても、見晴らしいいな)
かつて堀越公方館があった場所に残っているのは、目の前に見える老木二本。景色については、民家と伊豆の山々といったところだろうか。でも、何だか味があっていい。
昔はもっと見晴らしがよかったので、富士山が見えたりもしたのだろうか? だとしたら、本当に最高の屋敷ではないか。朝起きたら毎日日本一の山を拝むことができるのだから。
ちなみにだが、私が韮山へ来ていたときは曇っていたため、富士山を見ることはできなかった。
(続く)
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