【エッセイ】尾張②─名古屋城と加藤清正─ 『佐竹健のYouTube奮闘記(93)』
門を潜り抜け、二の丸へ入った。
二の丸には大きなアリーナとここにかつて陸軍の施設があったことを示す石碑があった。
(ここも陸軍の施設だったのか……)
有名な城には、必ず陸軍の施設跡という石碑がある。しかも、大体は県庁所在地の城に多い。
これについては、地政学的に重要だったり、既に防衛設備が出来上がっているところに作った方がコスパがいいみたいな理由だったりする。詳細については『東海城めぐり静岡編』「駿河②─駿府城─」に書いてある。
後で調べてわかったのだが、名古屋城は陸軍の基地があったらしい。それに関連して、本丸御殿や天守閣がしっかり保存されていたようだ。
保存されていたのは、ただ単純に文化財としてなのか、それとも天皇が休憩をしたり泊まったりする行在所として使われていたのか、あるいは師団長の部屋として使われていたのかはわからない。
二の丸をしばらく歩いていくと、櫓が見えてきた。櫓は白い漆喰が塗られた三層の櫓であった。
(しかし立派な櫓だな……)
ついに城らしい本格的な建物が見えてきた。やっぱりこうした建物があると、胸が高鳴って来る。
私はカメラを起動し、写真と動画を撮った。
動画を撮って、向こう側にある橋を渡り、本丸へ向かおうとした。そのとき、私から見て左側に銅像があったのが見えた。
(誰の銅像だろう?)
そう思い、私は銅像に近づく。
銅像の人物は、直垂を着ていて、左手に槍を持ち、扇子を持った右手を上げていた侍だった。口周りには立派な口髭を蓄えている。
近くにあった案内板には、
「加藤清正石引の像」
と書かれていた。
「加藤清正か!」
私は納得した。
加藤清正といえば、熊本城を作った人として知られている。戦国ファンなら誰もが知っている賤ヶ岳七本槍の一人である。
この加藤清正であるが、実は尾張出身の人物である。
清正は若いころに両親を亡くした。そのとき、自身の親戚に織田家に仕えて出世していた親戚の木下藤吉郎という人がいたので、彼を頼ろうとした。この木下藤吉郎は、後の豊臣秀吉である。
秀吉は彼を身近に置き、同じ故郷同じ一族の福島正則とともに自身の譜代の家臣とした。
以後清正は、戦国の重要な戦いに参陣し、武功を上げた。秀吉が柴田勝家を破った賤ヶ岳の戦いでは、武功を上げ、正則と共に賤ヶ岳七本槍の一人に数えられた。また、文禄・慶長の役では、朝鮮の二王子を生け捕りにしたり、現在の満州まで軍を進めたりと大活躍をした。
秀吉の死後は、家康に接近。関ヶ原の戦いでは東軍に着いた。
秀吉に恩義のある清正がなぜ家康についていたのか? これについては、豊臣家の家臣の筆頭格である石田三成が気に入らなかったことが大きい。
三成は事務や財務の能力を買われ、秀吉に重宝されていた。特に世の中がある程度落ち着いてからは、五奉行の筆頭としてその才覚を振るっていた。秀吉の死後、三成は秀頼を支える有力家臣の一人となった。彼の治世を守るべく、主君の死後力を増していた家康に対し、詰問使を送ったりなど目を光らせていた。
その三成と清正だが、どうも気が合わなかったらしい。
きっかけは朝鮮出兵。戦いの方向性をどうするかで揉めたことらしい。また、慶長地震が起きたとき、清正は恩人でもあり主君でもある秀吉の安否を確かめに伏見城へ駆けつけた。このとき、門前で足止めを喰らったのだが、そのときに足止めしたのが三成であったのだとか。
「秀吉の身内でもない三成が好き勝手やっている」
生真面目な三成の行動や言動が、清正の目にはそう映っていたのであろう。
秀吉が亡くなったあとから、三成へのヘイトが爆発していった。
それを象徴するエピソードは、仲間の正則らと共に三成を襲撃するという暴挙に出たことだ。
襲撃された三成は、家康に助けを求め、とりなしをしてもらい、隠居することを条件に事態を収拾させてもらった。
隠居した三成。だが、このままで終わるはずは無かった。
やはり、現役時代は豊臣家の文官のトップであったこともあってか、反徳川の大名たちが彼を頼った。そうして起こったのが、1600年に起きたあの有名な関ヶ原の戦いである。
関ヶ原の戦いの詳しい経緯については、尺の都合で割愛しておく。
歴史にそれほど詳しくない人も知っている通り、勝者は徳川家康率いる東軍で、敗者は石田三成率いる西軍であった。
関ヶ原の戦いの勝者となった、清正は熊本54万石の大名となった。
関ヶ原の戦い以後の清正は、勝者となった徳川家といち大名となった豊臣家とを繋ぐ架け橋となった。こうして恩人で主君の息子でもある秀頼のこと、そして豊臣と徳川の関係を気にかけている辺りから、豊臣家への恩や畏敬の念は忘れていなかったのであろう。が、1604年に亡くなった。
清正の死因については、暗殺説もある。清正は豊臣家からの信頼も厚かったため、スパイとして疑った家康が毒殺したというものだ。その後に豊臣系大名の改易を進めたり、同じく架け橋となっていた古田織部が切腹したりした辺りから、家康は豊臣家と繋がっている大名に警戒心を持っていたのだろう。天下人から65万石に没落したといえども、それなりの力を持っていた豊臣家。天下人となった家康にとっては、関ヶ原以後に臣従した大名よりも扱いにくかったことは間違いない。
また、家康は、豊臣家を滅ぼす総仕上げとなる大坂の冬の陣・夏の陣を数年後に挙行している。戦いを始める前に、影響力の強く、いつ寝返るかわからない豊臣系大名の力を削いでおきたかったというのもあるだろう。
熊本での清正については、九州城めぐり編でゆっくり語ろうと思う。
「さて、本丸に行きますかね」
加藤清正像の写真を撮った私は、写真と動画を撮ったあと、目の前にある本丸へと繋がる橋を渡り、本丸へ向かった。
(続く)
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