無職の半年間を振り返ってみた
無職178日目である。恐れていた冬がやってきた。金も仕事もない状態で冬を越えねばならん。
年末は数日ほど帰省する予定なので、そのタイミングで両親に「仕事辞めたよ」報告をしようかなあと思っている。4社受けて2社内定あったが辞退、2社は選考落ちしたと言えば、(働く気はあるんだ)と安心するだろう。まあ、最後に求人に応募したのは5カ月前であるが。
7月から無職なので、思えばこの年末で無職を合計半年間やってきたことになる。良い機会なのでどんな無職生活だったかを振り返ってみよう。
【無職1日目~7日目】
こうやって書くと「アクティブな人だ」「旅好きなのね」と思われそうだが、決してそうではない。根はひきこもりだ。
もちろんこの旅は刺激的で得るものが多かったのだが、同時に出発前に「行きたくない」「大変で面倒くさい」と思う自分もいる。
でも、無職に入ったこのタイミングで行くことで、これからの無職期間に自分が良い方向に舵を切れるという自信があったから思い立って行ったのであった。
この1週間の放浪の旅はこちらの記事にまとめた。パート4まである。
パート3で登場する、ある店のオーナーに「良いライターになってください」と声をかけてもらったことが、今一番の原動力になっている。
思えば仕事をやめる時も、福祉業界から全く別業界を志して「ライターになりたくて」「不登校や引きこもりの支援をしたくて」「独立したくて」と上司や懇意な客に言っても、「おまえならできると思うけど」「○○さんならできます」と応援してくれた人たちがいた。
それがお世辞だとしても、「え、マジでやりよったわアイツ」と思わせたいので、やり続けるしかない。人の期待を(良い意味で)裏切ることが、わたしの趣味であり生きがいだ。
【無職8日目~30日目】
旅から帰ると、疲れや暑さなどでやられて寝込む。でも、旅の後半には気づいていた。わたしの活動限界量をとうに超えていることは。普段1日1kmも歩かない奴が毎日10km近く歩いてたらこうなります。
それから就活で2社応募した。どちらもかなり好待遇であったが、残念ながら二次面接で脱落。
ちなみに今回の退職に伴い、6~7月で合計4社の応募をした。うち初めの2社からは内定が出たが、条件が合わず辞退した。以降、全く求人応募をしていない。
さくらももこの真髄
この時期に読んでいた本として、さくらももこのエッセイがある。彼女の経験、洞察力、文章表現力そのすべてに感銘を受けた。わたしもなにかエッセイを書き続けていきたくなった。
たとえば、『さるのこしかけ』というエッセイでこのような表現がある。
これは父ヒロシについての描写である。2文目は主語「彼は」から述語「男である。」まで2行も言葉が詰まっているのだが意味は明瞭だし、言葉が生き生きと父ヒロシの情けない情景を伝えてくれる。
本来であればこれほどまで主語と述語が遠いと読みにくいとか、句読点を用いて短く区切れとか言われるものであるが、この場合、前文で「父がイボ痔になったときのことを思い出した」と、概要を書いているからこそできる表現かと思われる。
この引用部分だけをみても、「父が妻の前に尻を突き出して痔の薬を塗ってもらう」というエピソードを持つ特異さ、そしてそれをしっかりと洞察、あるいは記憶する能力、そしてそのエピソードの面白さに鋭敏であり、その事実を「致命的にバカげた姿を家族にさらした暗い過去を持つ男」と、絶妙に面白く描写をする表現力が見て取れる。言葉の並び、順序、読点の有無。あまりにスッと書かれるその文章の面白さは、当然のようで、実はまったく当然ではない。
というわけで、さくらももこによる痔の描写に感動したのである。痔に感動である。痔に感動してエッセイをもっと書きたくなったのである。痔エッセイである。略してジッセイ。人生的な。意味がわからない。
【無職31日目~74日目】
無職期間になってからは頻繁にカフェにモーニングに行く。が、その1回500円のお金すら塵も積もれば山となり貯金がすぐに無くなってしまうので、行かない日は家でカフェっぽく過ごすことにした。
無職100日目には、節約怠惰メシを振り返る記事を書いた。
上記の無職放浪記のnote執筆にも励んだ。図書館のPC自習室でやる日もあるほど集中していた。このnoteが過去最高のスキをもらえてうれしかった。
それから、マルチ・ポテンシャライトという、一つの仕事に縛られない生き方の本を読み直し、やはり自分もこの道で行こうと思った。
つまり、興味関心のある複数の分野での兼業しながらの独立を目指そうと決意し、好条件でかつ学びたい分野でない限りフルタイムでの就労をしないことを決めた。
マルチ・ポテンシャライトについては、以下個人ブログにて解説記事を書いている。
【無職75日~115日目】
年金免除や奨学金返済猶予が通ったので、一安心する。また失業手当の受給も始まり出したので一度収支を表にすることにした。大体こんな感じ。
ただし、無職になって最初の数カ月の住民税や健康保険料を払い忘れていたため、最初は何か月分もまとめて払ってへそくりの5万円がすべてなくなってしまった。哀しい。余談だが、わたしのへそくりはクローゼットを開けて右側の衣装ケースの上から1段目の奥にある。我が家に侵入予定の泥棒、サンタクロース各位には無くなったへそくり5万円の補充を願いたい。
坂口恭平という人間
それから、日々の活動に関しては、ふと読み始めた坂口恭平の著書『生きのびるための事務』『その日暮らし』に強く感銘を受ける。レビュー記事は以下、個人ブログに書いた。どちらも強く推せる本だ。
これらが出版された時期に、ほぼ日で糸井重里×坂口恭平の対談が公開されているので、未読ならば是非ご覧いただきたい。かなりオススメである。
対談を読んでいると、坂口恭平は、常識とは関係なく、しなやかに何かを創っているだけだと分かった。そうして自然が移ろうように彼は生きている。そこにたくさんの物語が生まれるのは必然なのかもしれない。そう思わせる内容であった。
キャリアブレイクについて
またこの時期から、無職・休職・退職関係の本を読み始めて、キャリアブレイクという概念を知った。
知ったきっかけは、北野貴大『仕事のモヤモヤに効くキャリアブレイクという選択肢次決めずに辞めてもうまくいく人生戦略』を読んだからである。
本は、キャリアブレイクのざっくりした説明から始まり、当事者の体験談や、空白期間について企業や人事がどう見ているかなどについて触れられている。
著者である北野貴大氏はキャリアブレイク研究所という団体を立ち上げ、日本に「キャリアブレイクを日本文化に根付かせたい」と、さまざまな取り組みをしている。彼のその動機にも敬意を払いたいし、無職ながら私も強く同調する。もっと日本人休め、遊べ、と思う。無職の金欠ながら私もそう思う。
キャリアブレイクに関連してこちらの本も読んだ。
前者の本がざっくりとしたキャリアブレイク解説のビジネス本とすると、後者の本は8人の事例を基にキャリアブレイクの定義付けや考察をした、専門書に近い内容になっている。共著者にはキャリアブレイクの論文を発表している石山恒貴・片岡亜紀子を迎えている。関心があればぜひ一読されたい。
わたしがこのたび取り組んでいる無職期間も、「キャリアブレイク」というとなんだか格好がついて、社会的に許された感じがする。若干の必殺技感もあるし、良い言葉である。
1日のスケジュール
と、坂口恭平やキャリアブレイクという概念などにさまざまな刺激を受けつつ、とりあえずの日々のスケジュールを組んでみたのもこの頃である。こんな感じ。
22時就寝、5時起床。1週間は継続できたが、長くは続かなかった。それでも、早起き、遅起き、昼夜逆転と一通り試して、自分が思っていたほど夜型人間ではないことに気づけたのは大きかったと思う。
深夜にネットゲームをやっていた中学生時代から「自分は夜型人間だ」と思い込んでいたのだが、たぶんこれは「夜中、人々が寝静まっている時に活動すること」が得意なだけで、身体的にはどっちでもいいな、と思った。むしろ、午前中から何かを書いたり、カフェでモーニングを食べて本を読むのはとても心地よかった。
現在、5~6時に起きるというのはなかなかできないが、平均して8時ぐらいに起きることが多い。これは働いていた頃よりも早起きであり、自分がベストパフォーマンスを出せる時間帯がわかってきたのはうれしい。
また、無職100日目を越えたこの頃に他人との関わり、あるいは自宅以外での刺激を欲するようになった。コミュニケーションができなくとも、自宅以外の場所で他人の存在や適度な雑音、雰囲気などで気分を変えることが一番インスピレーションを生む。孤独な時間と、孤独でない時間があるからこそ良いのだと思う。
このあたり、やはりどこまでいっても自分は人間だなあと自覚する。ひとり旅、ひとりカラオケ、ひとり焼肉、ひとり映画、なんでもひとりが多いので「ひとりが好きなんだね」とよく他人に言われたりもしたが、仕事で毎日誰かと交流するからこそ、ひとりの時間がより尊かったのだと思う。だから無職で100日以上もずっとひとりで過ごしていると、他人との関わりがほしくなる。
【無職116日~160日目】
感想文企画に参加
大好きな出版社「ひろのぶと株式会社」が出版した本、古館伊知郎『伝えるための準備学』の読書感想文企画があったので参加した。
ひろのぶと株式会社は、『読みたいことを、書けばいい。』の著者である田中泰延氏が代表を務める会社である。
『読みたいことを、書けばいい。』は文章術系の本を数十冊読んだ中でも一番好きだし、面白く、そしてためになった本である。その田中氏が出したかった念願の本、それが古舘伊知郎『伝えるための準備学』だった。
ということで購入した。詳細は上記レビュー記事をご覧いただければと思うが、こちらもオススメの本である。正直、わたしは古舘氏のことを深く知らなかったのだが、それでも彼の知られざる裏側、そのプロフェッショナルさを知って刺激を受けた。
わたしが古舘氏を知ったのは、中学痔代、いや中学時代に尾崎豊にハマって、YouTubeで夜のヒットスタジオを見たときだったなあ、なんて、回想しながら感想記事を書いた。
この感想文企画には後日談がある。
わたしは3位までに入賞することは叶わなかったが、代表の田中氏からコメントを頂けたので喜んでいた。
そうしたところ、田中氏に、彼が書いた1篇の記事を紹介いただいた。それを読むと、世界がつながっているのだと心が熱くなった。こんなふうに私も世界とつながりたい、つなげたいと思ったのであった。
碇浩一先生について
しばらくの間、精神科医・碇浩一先生の活動全般についての調査をした。
詳細は上記の記事に書いたが、ある本で1ページだけ彼の文章を読んで、もっと知りたくなったのである。ということで、すでに廃版となった碇氏の著作を2冊メルカリで買い、読んだ後はインターネットで彼のこれまでの活動を調べた。
調べていく中で、碇氏は2016年に亡くなっていることがわかった。それでももっと彼のことを知りたくて、Wayback Machine(WEBアーカイブサイト、閉鎖したサイトなども一部閲覧が可能)を駆使して彼の活動を追ったのである。
そうして見えてきたのは、『幼老共生』という社会の在り方を提唱する、現代の少子高齢化社会を見据えた彼の熱い想いだった。同じく、心理・社会・福祉関係に興味関心のあるわたしは、碇氏のその熱意を心で受け止めたのであった。
病気のため幼少期を療養施設で過ごした碇浩一先生だが、その一生を追って調べていくとあちこちに散在する彼の真っ直ぐな想いに涙を堪えきれなかった。
わたしはある時期、碇氏のことだけを調べ、考え続けていた。その頃に流していたピアノのアルバムがいくつかあるのだが、今でもその曲たちを聞くと碇氏がそばに居てくれるようで、彼の優しさや熱意を感じることができる。
勿論ながら、生前にまったく面識はない。しかし、本の向こう、WEBアーカイブサイトの向こうにだって、わたしは彼のあたたかみを感じられる。
遠藤周作のエッセイ
遠藤周作の『狐狸庵人生論』というエッセイを読んだ。これがかなり良かった。なんというか幅があるのである。人生の幅、感情の幅だ。
一言でいえば、とても豊かであった。洗礼、留学、友人、家族、奥さん、病気、病院、日常、執筆、外食、旅行。あらゆる出来事が彼の創作の糧になっている。
ということで、小説『沈黙』『深い河』も買った。まだ読めてはいないが、これはじっくりと読みたいと思ったので、貧乏ながら図書館で借りるのではなく、買うことを選んだ。
おもしろい話として、遠藤周作は昔からイタズラ好きとしても有名だったことがある。さくらももこと対談した際は、冗談などでさくらももこを散々からかい翻弄した挙句、東京ガスの営業所の電話番号を「ぼくの電話番号」と称して渡し、さくらももこをして架電させることに成功している。
と思えば、エッセイの一篇でジーンと来るようなエピソードが急に現れる。その幅の広さが、彼の豊かさなのだろう。
詩と茨木のり子について
無職生活の限界が見えてきて、「今しかできないことは?」と日々考えるようになった。その中でトライしたことの一つが、詩を読むことであった。
詳細は、下記の記事に記した。
わたしは詩としっかりと向き合ってこなかった。映画や音楽など、他の媒体に登場したから一部を知っているとか、その程度だった。
その詩を、今やらないと、今読まないと一生読まないのかもしれない、知らないままなのかもしれないと思い、意を決して読み始めた。
最初に導入として、『詩のこころを読む』という詩の入門本を読んだ。
これがとてもやさしく、丁寧で、面白く読むことができた。著者が、何人かの、幾篇もの詩を引用・解説しているのだが、心に静かに溶けるように理解できた。わたしと同じく、「詩なんてわからない」と思っている方にもオススメしたい。
この本の著者であり、解説者なのが茨木のり子という詩人であった。だから茨木のり子をはじめとして何人かの詩集を借りた。これが、33歳にして初めてわたしが『詩集』を手にした瞬間だ。
わたしには詩などわからない、わかる人にしかわからない。そう思っていつも避けてきた。しかし、詩人が言葉の中にさらけ出したその切なさや、言葉にならぬものを言葉にしようとする思いに心を打たれ、涙がこぼれた。
詩は、開かれているのだと思った。言葉の可能性の内に、表現が開かれている。そして読む者にとってもまた、解釈が開かれている。自由だ。自由がある。自由に向かって、世界が、言葉が解放されている。
現在も少しずつ何人かの詩集を借りて読み続けており、特に茨木のり子については詩集以外にも伝記や展覧会の図説なども購入したので、詩を読みながら彼女の生涯を調べていきたいと思っている。
【無職161日~178日目・現在】
ここ2か月ぐらい、図書館に行くたびに限界の20冊の本を借りている。読み切れないのだが、何かを読んでいる時にまた何か読みたい本が出てくる。そして図書館に行くとまた気になる本を見つけてしまう。というわけで、昔買った本、最近買った本、借りている本で部屋はいっぱいである。でも、追いつかないのがうれしくもある。
アニメ『Re:ゼロから始める異世界生活』でベアトリスという禁書庫に閉じこもる精霊がいるが、わたしは何年も前からずっとあの空間に憧れている。一生と言われると辛いが、たとえば、1週間とか、1カ月とか、一定期間、知の海に溺れたい欲があるのだ。
だから、今は本が生活の主要部を占めている。この終わりの到来がこわい。なぜ働いていると本が読めなくなるのか。「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」も読みたい。お金がないので今はまだ我慢している。
また、一時期は本を読んだり、ブログを書くモチベーションがわかないときは惰性で1日中ゲームをしていた。のだが、負けがかさみ、いったん2298回目の仮引退を行った。平均して36時間程度で復帰をするというデータがあり、まもなくかと思われる。
裁判・市議会の傍聴
それから、ある日、目が覚めたとき『傍聴』をひらめいた。無職中にしかできないことで、お金がかからないこと。別に裁判も市議会もたいして興味はない方だったのだが、良い機会だと思ってどちらも行ってきた。
以下、その感想記事である。
視野が広がった、話すネタができた、という意味でよかったと思う。そしてもちろん、以前よりは市議会や裁判そのものに対して興味を持つことができるようになった。
このままでは変人から一般人になってしまうので、無駄な趣味も同時に広げていきたいと思う。例えば焼肉屋に行ったときに必ず白米だけを撮影し、Xに投稿するといったような趣味である。
無職の限界
この記事を書き始めたのは、2024年12月24日の23時ごろであり、書き終わったのが12月25日の午前4時48分だ。ここはクリスマスから隔絶された空間である。
そんなことはどうでもよくて、わたしの失業保険は1月20日で終わりを迎える。そして現在の貯金は13万円だ。まもなく、確実にわたしの無職生活が終わってしまう。無職が終わらないのだとしたら、わたしが終わってしまう。働かないとすべての支払いができない。
約半年にも及ぶ無職生活そのものには、大変お世話になった。そして出会った人々、本、音楽、詩、景色、すべてに感謝をささげたい。
今わたしの中には、働かねばならぬという焦燥と、きっとどうにかなるという安寧の葛藤がある。働くことというよりは、やりたくないことから逃げようとする力を感じる。
最後まで、最後の日まで、どうにか自分の生きる道、生きてゆけるだろう獣道を探し続けたいと思う。まだまだこの人生、やりたいことは尽きないのだから。
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