知る、という虚しさ
先日、デートで久しぶりに恵比寿に行った。少し早く着いた私は、何年ぶりかに降り立った恵比寿の薄汚れた路地に足を運んでいた。
恵比寿というのは小綺麗で、小汚い街だ。
恵比寿ガーデンプレイスのキラキラしたシャンデリア。ハイブランドを纏った客がお洒落な内装と一体化しているレストラン。
一本でも裏の道に入れば、サラリーマンのひしめく居酒屋と、道端に無数に落ちているタバコにガム。喧騒とコール。
この街では、一体化した表と裏を垣間見ることができる。5000円のコース料理の裏に99円の生ビールを覗き見るのは、なんとも面白い。
私は、小学生の時にこの恵比寿からバスに乗って通学していた。駅からバス停への道すがら、親のいない見知らぬ街は、小さな目にはあまりにも魅力的に映った。
小さな悪友達と、ランドセルを揺らしながら走り回り、恵比寿の街を探検した。
キラキラしたatreの中はもちろん、汚い裏路地。地元の人が来るのだろう小さなスーパーに抜け道があって、駅からバス停まで早く行けること。スーパーの中を駆け回る私たちを、八百屋のおじさんは、こんな道まで知ってるの、かしこいねぇ、と眺めていた。
恵比寿の街を歩きながら、私の目には駆け回る小さな女の子が映っていた。懐かしい店、いなくなってしまった怪しい占いのおばあちゃん。
だけど、恵比寿という街は以前よりも魅力的ではなくなってしまった。
昔は、目に映るもの全てが新鮮で、楽しかった。ビルの隙間を通って向こう側に出られることを知った時は筆舌に尽くし難い感動だったし、落ちていたタバコの箱にタバコが一本残っているのを見つけた時は、手が震えそうな興奮を覚えた。
さらに、ビルの隙間を服を引っ掛けながら進もうが、スーパーの中を爆走しようが、他人にどう思われるとか、迷惑だとかなんて全く考えなかった。道行く人なんて背景と同化して、存在さえも認知していなかった。
自分の目に映る世界が全てだった。
それなのに、今ではスーパーで話しかけられても、何も買わないから適当にあしらってしまう。落ちているタバコを見て、汚いな、と薄ら笑う。
もっともっと楽しい場所や、綺麗なもの、素敵な人を知ってしまった。知ってしまったから、もう通学路如きでは満足できないのだ。
より良いものを知るというのは、一見素晴らしい経験だが、同時に失うものもある。
飛び抜けて良いものや、心奪われるものに出会ってしまったら、もう他のものでは満足できない。それを上回るものに出会わなければ、驚きも感動も得られない。
他人の目線もそうだ。もし場を弁えることとか、街ゆく名前も知らない人にどう思われるかなんて考えずにに生きていけたら、きっと人生には悩みが少なく、世界はもっと魅力的だったはずだ。
だけど知ってしまっては、もう忘れることはできない。知ることは素晴らしいが、時に虚しさも秘めている。
もし、私が永遠にタバコを知らなければ、私はいつまでもタバコの空き箱に何か怪しい、惹かれる力を感じていたのだろうか。