『えーえんとくちから』/カオの本棚より
何かにつけ「この気持ちに名前をつけたい」とか、「うまく言い表したい」とか思っていた。言葉と感情を接続して書き留めることが文才だと思っていた。
だけど言葉は不完全だ。
とらえようと思ってとらえれないもの、説明しようと思って説明できないもの、分っているんだけど伝えようのないもの……。そういうものが溢れていて、それを言葉で囲い込んだりくくりつけたりするのは、何ていうか違うんじゃないかと思うようになった。
ひとつの言葉を選ぶことは、別の何かを切り落とすことだ。世界は思ってる以上に繊細で声のない声に溢れていて、それらと生きたいのなら、口を噤むのがいちばんいい。
それでも、自分の中から何か漏れ出でしまうならしょうがない、そう思ったりもする。
赤ん坊が泣くのは、食欲とか睡眠欲とか、肌の繋がりとかを求めるだけの手段ではないらしい。暇つぶしとか、とりあえずとかけっこういい加減な理由で泣くという。泣くことしかできないから。もしかしてそれは、かれらの表現とも取れるかも知れない。
だから僕は僕に言葉を繰(く)ることを許している。これは生まれついての欲求だからしょうがないと言って、詩(うた)ったり踊ったりする。
好きな本を紹介しつつ妙な語りをいれてくる、『カオの本棚』シリーズです。だいぶ間隔が空きましたがまだまだ続きます。
今回は、短歌集について。
えーえんとくちから 笹井宏之作品集/ 著 笹井宏之/発行 PARCO出版/2011年発行
↑この黄色がいいし、他の誰でもなく川上未映子が帯の言葉を書くことで完璧にいい。
◇ ◇ ◇
この本を買った時のことをよく覚えている。
当時はヴィレッジヴァンガードの近所に住んでいて、仕事帰りにヴィレヴァン、休みの日にもヴィレヴァンと足繫く通った。
今では店舗も増えたし入りやすくなったが、当時は何屋か分からないし、客はひくほどお洒落か、職業年齢国籍不明の超個性派しかいなかった(気がする)。仕事帰りは”観光客”のふりをし、休みの日はヴィレヴァン用のドレスコードで入った。本屋にドレスコードはないけど、長時間いるためにはカメレオンのごとく周囲に溶け込んでいた方がいいと思ったのだ。
通ってる割に休みが分からないというか、人がいても閉まっていたり、いらっしゃいませも言われた覚えがないし、お店の人はギルドの偏屈な主人と彼が作ったオートマタ(少女型)にしか見えないし、店内暗いし迷路だし地震があったら押しつぶされるし、所狭しと並んだ本と雑貨は魅惑的だし、半日は余裕でつぶせるし、そこは魔境だった。
その魔境の奥深く、どぎつい感じのドキュメントものばかり集めたコーナー、その脇に旅系、一区画おいて小説の棚、その下に平積みになっていた地味な本。
その控えめで昔の教科書っぽい感じが妙に気になった。
短歌にはあまり興味がなかった。
手に取って開いて、一首目を読んで、それから、このうたを忘れられない。
えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい
その言葉はそのまま心に移された。
◇ ◇ ◇
10年経った今でも、たまに本を手に取ると、暗い本屋での鮮やかな感覚がよみがえってくる。本を所有することの良さのひとつだ。
そしていつも忘れがちなことを思い出す。
言葉は、書かれた言葉は、自分らしさとかオリジナリティを刻印されることを望んでいない。
言葉は、コトバという器にとどめ置かれるものじゃない。
言葉は、手のひらでそっと掬いとって、心に移しかえられて“生きて”ゆくもの。
息の長い作品にしよう、大勢の人の心に残る作品にしたいと思うのは、悪いことじゃない。
上手とか下手とかを乗り越えて何か書こうとする試みも悪くない。
でも生き残るのは何かを伝えることができた作品だけ。
そしてそういうものを生み出すことは、無数のステップを踏んだ先にしかない。
僕はその階段(ステップ)を這うナメクジで、たくさんの言葉、たくさんの表現を長い話にして捏ね回すうちに何が言いたいのかさえ曖昧になってくる。
書きたくて書けないものがあって、階段を登りはじめたはずが、階段そのものに張り付くことに腐心して、自分の這った跡に嫌気がさす。
笹井さんという人は、たった31文字で全ての先に届いていた。
天才というのは、このステップを軽やかに超えていける人、もしくはステップそのものが存在しない人のことを言うのだろう。
笹井さんは天才で、26歳で夭折した。
言葉にも、記録として残されるものと記憶として残されるものがあるとして、だったら自分はたったひとことでいいから記憶に残りたい。そこに名前を刻むことはできなくても。
2019年に笹井宏之賞という短歌の賞が設立された。
笹井さんの名前はこの賞とともに残る。
言葉は彼の本の中に残る。
彼の心は僕や誰かの中で生きる。
斜線部引用 「えーえんとくちから」より
読んでくれてありがとうございます。