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拝啓 現代のフェルメールたちへ ーMidjourneyと共に描く世界のために

Midjourneyに有料課金した。

人間のプロを探しつつ、20年来しつこく描き続けてきた、インナーチャイルドならぬインナーベイビー≒ネオテニーとしての自分というテーマを、

https://note.com/neotenylab/m/m12eb690c405e

ヴァーチャル空間に移住させるべくAIにも再現を頼み続けている。


トライアンドエラー中の一枚。
足が植木鉢?

手を替え品を替えならぬ、センテンスを変え、単語を変え、それらをブレンドし、すこしずつ自分の絵柄に近づけていこうというたくらみである。

これまでは、絵を描くために画材を変えたりラフを描き溜めたりしていたが、今メモ帳に描(書)き溜めているのは、「単語」、「短いセンテンス」のリストだ。

絵描たちよ、筆を置き、辞書を開け

呪文で美術館が作れる時代、という記事を書いた。

それから2ヶ月。AIを色々いじりまくって思ったことがある。

これからの時代、絵を描こうと思ったら、まずは詩を書くか、辞書を取るだろうこと。そして最終的には、三位一体の精神が統合されるということだ。

言語表現を集めるのは、物書きの精神

対話しながら観察して待つのは、撮影者の精神

そこで目指しているビジュアルへと牽引するのは、絵描きの精神だ。

これら、表現者として欠かせないと思ってきた3つの精神。

未成年の頃から共にあったけど、それぞれ分断させたまま走らせてきた。

何度も統合を試みるものの、それぞれアウトプットの雰囲気があまりにも違いすぎるため、しっくりするものを見つけられずに人生を折り返した。

と思った今、この3つがDiscordの画面上で統合している。

概念・即興性・意図
が、Discord上で混ざり合う。

手で描画しない絵は作品と言えるか?なんて問いはもはや愚問だと思う。

カメラの誕生したときのことを、想像してほしい。

おそらく、昔は絵描きからみたら同じようなけしからんチートアイテムだっただろう。

筆を動かさずに、肖像画が描けるのだ。

現代のフェルメールとしてのわたしたち

日本人が大好きなフェルメールは、(今でいうカメラとは違うものだが)カメラのレンズから見た画像を参考にした(あるいはトレスした)という話がある。

まだ真偽の程はわからない、とのことなのであくまで通説のひとつだ。

でも、実際にトレスだったとして、今更それが何の問題になる?

自分の心に聞いてみれば、エゴの鎧の皮を剥き、「表現とは何か」の本質に近づけば近づくほど、それが見つからないことに気づくと思う。

これは物質としての絵を「古い」とか「ムダだ」と言っているのではない。

キャンバスの独特の物質感が好きだ。

わたしも昔、父に厚さ10センチのリバーシブル使用の特注キャンバスを作ってもらって、自分のらくがきをトレスして巨大化させたこともある。

物質的な絵でしか与えられない印象は、他のどんな表現媒体でも得られない。どんなにディスプレイが高精細になっても、永遠に傷つくことはないだろう。

自分のラフや綴った言葉にAIとのキャッチボールで偶然性を混ぜ合わせ、感性を撃ち抜いたビジュアルを、キャンバスに描くなんて、絶対に最高だ。

今は、それどころじゃないから無理だけど、想像するだけで描きたすぎて震える。

きっともう、世界中の画家が習作を生成しまくり、描き始めているに違いない。

深夜の描きたい衝動は止められない

って5分日記のつもりが暴走、自分もそっち方向で遊びたくなってきてしまった。

Genius who is made of 1 percent inspiration and 99 percent perspiration
エジソンの名言なのに、アインシュタインがしゃしゃり出てきてるのは気のせいですか?

「おい、明日も朝イチで子どもの習い事の送迎だよ?」という心の声を無視して、いろんな名言を、Midjourneyに語りかけてみる。

As above, so below; as below, so above
ヘルメス文書の有名な一節
これは対話繰り返したら、見たことのない世界が見れそう

どう??

今や渾身の一枚をキャンバスに描くまでのトライアンドエラーをほぼ無尽蔵にできるようになった。

さて筆を取るまでに、どれだけの習作を重ねられるだろう?

なんか、フェルメールの作品が少ないのって、カメラでジゲチの世界見ちゃったからなんじゃないかって思うの、わたしだけ…?

そうやってチートアイテムを最大限に活かして洗練に洗練を重ねた渾身の作品だったからこそ、寡作でありながら歴史に残る作品が生まれたんじゃないだろうか?

美術史ちゃんと勉強したわけじゃないから、知らんけど。

カメラと同じ危険性も抱えているAI画像生成

チートアイテムがあると、何でもいっぱい作れるというのは商業的な考え方で、発表したいと思える作品がむしろ減るというのは、作家の精神でMidjourneyいじった人なら、きっとどこかで納得してもらえると思う。

ただ、これもカメラと同じくデジタル世界に「既にあるもの」しかソースにできないという同じ限界を抱えていて、

カメラと同じく、作品にする1枚を選ぶのには、倫理と哲学が求められるなあともひしひしと感じているところだ。

特に、今は足跡が全部に着くし、生成された画像がまたソースになるから、カメラに輪をかけて大事になる。

それはまた、別の記事で。


Vermeer's "Woman in a Pearl Necklace" is depicted in a woman's room reading Vermeer's letter, using computer AI image generation software, –v 5
これ、誰かフェルメール風に本当にキャンバスに描きません…?


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ゆっか
自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。

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