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ジョン・ワッツ監督 『スパイダーマン ホームカミング』 : ヒーローと社会的承認

映画評:ジョン・ワッツ監督『スパイダーマン ホームカミング』2017年・アメリカ映画)

ジョン・ワッツ監督による本作『スパイダーマン ホームカミング』(以下『ホームカミング』と略記)は、同監督による『スパイダーマン ファー・フロム・ホーム』『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』と続くシリーズの1作目である。
ちなみに、まもなく公開される続編の4作目は、新たにデスティン・ダニエル・クレットンが監督を務めて、ワッツは降板している。

サム・ライミ監督&トビー・マグワイア主演の「スパイダーマン」(2002~07)、マーク・ウェブ監督&アンドリュー・ガーフィールド主演の 「アメイジング・スパイダーマン」(12~14)に続き、3度目の映画化となる新たな「スパイダーマン」。主人公スパイダーマン=ピーター・パーカー役には、「インポッシブル」トム・ホランドを抜てきし、「アベンジャーズ」シリーズをはじめとした、同じマーベルコミック原作の作品同士で世界観を共有している「マーベル・シネマティック・ユニバース」に参戦。』

映画.com『スパイダーマン ホームカミング』

ということで、私の場合は、サム・ライミによる最初の3部作は見ているが、マーク・ウェブ監督の2部作は見ていない。

サム・ライミ版は、1作目がなかなか楽しめ、2作目をとても気に入ったのだが、3作目に失望したという結果で、そのこともあってマーク・ウェブ版(全2作)は見ていないし、ジョン・ワッツ版も今日まで見る気がなかった。

それを今さら見てみようという気になったのは、先日読んだ、河野真太郎『正義はどこへ行くのか 映画・アニメで読み解く「ヒーロー」』(集英社新書)の中で、ジョン・ワッツ版の3作が紹介されており、特に第2作と第3作が、第1次 ドナルド・トランプ政権の「ポストトゥルースの時代」を反映した作品になっていると評されていたので、その点に興味を持ったためである。

河野はそこで、「ポストトゥルースの時代」つまり「真実後の時代=唯一の真実というものが見失われた時代」における「ヒーロー」とは、どのようなものであり得るのかということを論じている。
「真実」が見失われるということは「善悪」判断も見失われるということであり、そんな時代に「ヒーローは、正義を体現する存在であり得るのか」という問いに対して、河野は「それが困難になっている」と、まあ、たしかにその通りではあるものの、良くも悪くも「判断保留」を語るに止めていた。

そして、そんな河野真太郎の「考察」に物足りなさを感じたので、ヒーローには一家言あるつもりの私は、「それならば」と、この「ワッツ版三部作」を見ることにしたのである。

さて、今回その1作目を見たわけだが、どうであったか?

有り体に言えば、よくまとまっているものの、「可もなく不可もない娯楽作品」でしかなかった。
また、河野真太郎が論じた「ポストトゥルースの時代」の問題は、本作ではまだ出てきておらず、その点では、私の目論見から外れた作品でもあったのだ。

一一したがって、「ポストトゥルースの時代におけるヒーローとは?」という問題については、2作目、3作目のレビューでの課題とし、本稿では、少し違った角度から「ヒーロー」について考えてみたいと思う。

本作の「ストーリー」は、「Wikipedia」に最後まで詳しく紹介されているが、長くなるので、ここでは「映画.com」の「あらすじ」の方を紹介しておきたい。上に引用した「解説文」の続きである。

『(※ 20)16年に製作・公開された「シビル・ウォー キャプテン・アメリカ」で初登場を果たした後のスパイダーマンの戦いを描く。ベルリンでのアベンジャーズ同士の戦いに参加し、キャプテン・アメリカのシールドを奪ったことに興奮するスパイダーマンこと15歳の高校生ピーター・パーカーは、ニューヨークに戻ったあとも、トニー・スタークからもらった特製スーツを駆使し、放課後の部活のノリで街を救う活動にいそしんでいた。そんなニューヨークの街に、トニー・スタークに恨みを抱く謎の敵バルチャーが出現。ヒーローとして認めてもらい、アベンジャーズの仲間入りをしたいピーターは、トニーの忠告を無視してひとりで戦いに挑むのだが……。』

(キャプテン・アメリカのシールドを奪った、回想シーン)

以上の「あらすじ」紹介からも分かるとおり、本作は、主人公の少年ピータートム・ホランド)が、「ヒーロー」としての自覚を持つに至るまでの、挫折体験とその後の成長を描いた作品だと言えるだろう。

放射能を浴びたクモに噛まれたことによって、クモの特殊能力を持つようになったピーターは、もともとアイアンマンなどのヒーローに憧れる当たり前の少年だった。
その能力をアイアンマンことトニー・スタークロバート・ダウニー・Jr)に買われて、ヒーローへの道を歩み始めたピーターだが、その「ヒーロー」像の中身とは、「強くてカッコいい正義の味方」であり、かつ「人々からの賞賛を一身に集める存在」という、いかにも子供らしいものだった。

つまり、「強くてカッコいい正義の味方」というのは、当初のピーターにとっては、「事実としてそのような存在」であるばかりではなく「他人からもそのように見られる(評価される)存在」でなければならなかった。一一と言うか、正確には、それを同一視していたのである。
「強くてカッコいい正義の味方」ならば、当然「他人からもそのように見える存在」であるはずだから「人々からの賞賛を集める存在」であるはずだと。

ところが、彼の指導的立場に立ったトニー・スタークは、ピーターをすぐには「アベンジャーズ」には加えなかった。
もちろん、彼がまだ子供だということもあったし、まだまだ「ヒーロー」という存在の「重さ」をピーターが理解していなかったからで、人間的な成長を期して、彼に「自分の街の平和を守る、お隣さんヒーロー」の勤めを果たせと命ずる。

当初ピーターは、その命令に従って、泥棒を捕まえたり、困っている人を助けたりしていたのだが、だんだんそれでは物足りなくなってくる。そもそも彼の思い描いていた「ヒーロー」とは、そんな「ケチは存在」ではなく、世界の命運をかけて戦う「アベンジャーズ」のヒーローたちのような存在であり、それを「ヒーロー」と呼ぶのだと、そのように不満を募らせていったのだ。

そして、「あらすじ」で紹介されているとおり、派手な手柄を立てようと勝手な行動に出て、その結果、多くの人命を危険に晒すことになってしまう。そして、あわやというところでそのピンチを救ってくれたトニー・スタークから、「ヒーロー失格」を言い渡されてしまう。

(ピーターの独断専行による不用意な戦闘のせいで、多くの乗客を乗せた船が真っ二つに切断され、それを必死で食い止めようとする。間一髪で、アイアンマンが救援に来てことなきを得たが、トニー・スタークは「君にそのスーツを着る資格はない」と厳しく叱責し、スーツを取り上げて帰ってしまう)

ピーターの年齢を考えれば、こうした気持ちもわからないものではない。
当然のことながら、彼はスタークから、自分の正体を隠すよう厳命されていたのだが、せっかく人助けをし、新聞にも自分活躍が報じられているというのに、そのスパイダーマンが自分だと言えないのは、なんともつらい。友達や好きな女の子に「実は、スパイダーマンの正体は僕なんだ」と吹聴したくなるというのも、無理からぬところであろう。

(左がピーターの親友でオタク友達のネッド
(ピーターが恋い焦がれるミッドタウン高校の女生徒のマドンナ的存在 リズ

だが、言うまでもなく、「ヒーロー」とは「人に褒めてもらう」ためになるようなものではない。
そうではなく、「人に抜きん出て、人に褒められるようなことをやった者が、結果としてヒーローだと評価される」のであって、その逆ではない。つまりヒーローとは、結果であって、目的ではないのだ。

したがって、「褒められて当然」という気持ちでそれをやっているのなら、その人はヒーローではないし、そんな気持ちでやっていると、「人に褒めてもらえないようなことは、馬鹿馬鹿しくてやってられない」ということにもなりかねない。たとえそれが、求められる正義の行動であったとしてもだ。

実際、ヒーローというのは「人に嫌われても、人々に誤解されても、人々のために正義をなす」存在でなければならないのである。そんな、普通の人には出来ない「正義」を行うからこそ、彼はヒーローなのだ。
たとえば、『ダークナイト』クリストファー・ノーラン監督)のバットマンが、ラストで、あえて悪人と誤解される道を選んだように。

しかしまた、ピーターのイメージしている「ヒーロー」像とは、いかにもアメリカ的に、ごくわかりやすいものだと言えるのかも知れない。例えば、「昔のスーパーマン」みたいなものだ。
ここであえて「昔の」とつけたのは、近年ではスーパーマンでさえ、世間からの誤解を受けながらも悪と闘う姿が描かれるようになったからだ。

しかし、こうした「賞賛を浴びることのないヒーロー」像というのは、日本においては長らく、比較的オーソドックスなものだったようにも思える。
前記の『ダークナイト』のバットマンがそうであったように、「あえて汚名を着たまま」あるいは「人々からの誤解を受けたまま」、それでも「人々のために正義をなす」というのは、例えば、高倉健任侠映画の「悪人ではない博徒(ヤクザ者)」だとか、人間扱いされない改造人間「仮面ライダー」だとか、忌避され差別される「妖怪人間ベム」だとかいった系譜が、たしかに存在すると思うのだ。

もちろん、アメリカにもこのパターンはあるのだが、日本人は、殊のほか「不遇なヒーロー」というのが、好きなのではないだろうか。
たぶんこれは、日本人の「判官贔屓」的な趣味として、人々からチヤホヤされる英雄よりも、その真価を評価されない不遇なヒーローに惹かれる傾向があったということなのではないか。

例えば、「ヒーロー」とは無関係の歌謡曲だが、かつては次のような歌詞のヒット曲があった。

君のゆく道は 果てしなく遠い
だのになぜ 食いしばり
君は行くのか そんなにしてまで

「若者たち」作詞:藤田敏雄

たぶん、こういう「あえて困難に立ち向かう」という「悲壮」とも言える姿が、日本人の情感に強く訴えるところがあったのだろう。だからこそ「ヒーロー」も、脚光を浴び、その力で後押しされる存在であるよりも、むしろ「人知れず孤独に、人々のために」というスタンスの方が「ヒーロー」らしいということだったのかも知れない。

最初の『仮面ライダー』の挿入歌には「ロンリー仮面ライダー」(作詞:田中守)というのもあって、その歌詞とは、次のようなものであった。

荒野をわたる風 ひょうひょうと
ひとり行く ひとり行く
仮面ライダー
悲しみを噛み締めて
ひとり ひとり 斗う
されどわが友 わがふるさと
ひとりでも ひとりでも
護る 護る 俺は 仮面ライダー

ここにはハッキリと「栄光」とは無縁なヒーロー像が描かれ、またそうであるからこそ、彼は「孤高のヒーロー」として、ヒーローらしいと感じられたのではないだろうか。

だから、ピーターの「チヤホヤされたい」という気持ちは、もちろん当たり前の人情としてよくわかるのだが、しかしそれは、日本的なヒーロー像からすれば、いかにも論外なものでしかなく、本作『ホームカミング』のように、そこからヒーローを目指す物語というのは、当たり前の「少年の成長譚」ではあっても、「ヒーローもの」としては、まさに「ヒーロー未満」の物語でしかなく、その点で、否応なく物足りなさを感じさせられたのである。

ただ、ここで本作に絡めて私が提起したいのは、今の日本社会では、かつてのような「人に嫌われても、人々に誤解されても、世のため人のために」あるいは「人知れず、人々のために」正義をなす、というようなスタンスが、すっかり失われてしまっているのではないか、魅力的だとは思われなくなってしまったのではないか、という問題だ。

かつては多少なりともあった「たとえ人が評価してくれなくても、自分の志は自分自身がよく知っているのだから、それでいい」というような「ストイック」さがすっかり失われて、それこそ「未熟なピーター」と同様に、「評価されるため」にしか行動しない。

例えば、テレビのコメンテーターなどが典型的だが、いかにもごもっともな「正論」を吐いて、自身を「正義と良識」を体現する存在の如く見せようとするのだが、しかしそうした発言は、あくまでも世間が認める範囲内での無難なものでしかなく、あえて世間の反感を買ってでも言うべきことを言う、損をしてでも、自身の正義を貫く、というようなことが、すっかり無くなってしまったように思えてならない。

これは「批評」においても同じで、今の世の中では、商品の売り上げに貢献しないような「本音の批評」は求められず、その代わりに、嘘も方便としか考えていないような「提灯持ち記事」ばかりが溢れかえっている。
またそのために、アマチュアの書くものでさえ、そうしたスタンスのものがデフォルトになってしまっている。

要は「本当のことを伝えるために書く」のではなく「自分がチヤホヤされるために書く」のだ。そしてそのためには「心にもないこと」つまり「嘘」でもつけるし、書ける。
それどころか、どんなに巧妙な嘘をつけるか、そんな嘘のテクニックさえ自慢し始めたのが、今どきの「ライティング」とやらにおける「うまく書く」ことの基本にさえなっているのではないだろうか。

そんなふうに考えていくと、本作『ホームカミング』は、言うなれば「当たり前の成長譚」だったのだけれども、しかし、私たちの現実の方は、そんな「当たり前の成長」どころか、むしろ、いじましいまでの「承認乞食」にまで退化してしまっているとさえ言えるのではないか。

私はよく「駄作は駄作としか言いようがない」ということを言うけれど、しかし、なぜこんな当たり前のことを言うのかといえば、それは大半の人が「駄作を傑作だと、褒めてナンボ」という態度を採っているようにしか見えないからに、ほかならない。

「駄作を駄作と言うだけなら誰でもできる。肝心なのは、その作品の良いところを見出し、それを語ることなのだ」というような、耳触りが良いだけの「偽善」がまかり通っている今の世の中において、それでも「正義」をなすためには、むしろ「嫌われ役」を引き受ける覚悟さえ、必要なのではないだろうか。

そして、このような認識は、ワッツ版「スパイダーマン」の第2作第3作の評価にも関わってこよう。

本作『ホームカミング』でも一度言及されていたし、サム・ライミ版の三部作では何度も言及されていたように、「スパイダーマン」という作品は、もともと次のようなテーマ性を持っている。

『スパイダーマンは、自らの過ちによって伯父の死を招いたことをきっかけにスーパーヒーローとして人生を歩むこととなり、「With great power comes great responsibility.(大いなる力には、大いなる責任が伴う)」という言葉を教訓に成長していく。』

(Wikipedia「スパイダーマン」

つまり、大いなる力を行う者は、それに応じた賞賛を浴びる以前に、それ相応の重荷を課せられているということであり、それがヒーローにとっては、しばしば「行い相応の評価を受けない」ということでもあるのではないか。

前述の河野書によれば、ワッツ版「スパイダーマン」の第2作目では、スパイダーマンは敵の策謀によって、世間に正体をバラされ、さらに「悪役」の群れ衣まで着せられる。また、そうしたこともあって第3作目では、彼の存在自体が人々の記憶から消されてしまうという、つらい展開になるという。
これは、ヒーローとして「人々からの賞賛」を求めていた、初期のピーターの願望を真逆に行くような皮肉な展開だが、しかし、結果としてこれは、彼が「人知れず、人々のために斗う、真のヒーロー」になっていく道程だとも考えられるのではないだろうか。

河野真太郎は、この第3作目のいささか悲劇的な結末に「ヒーローという存在の、現代的な困難性」を見たようだ。

『ノー・ウェイ・ホーム』の悲しい結末は、その意味で必然だ。ピーター・パーカーはみなから忘れ去られる。だがそれでも、「誰もが知るスーパーヒーロー」ではなく「お隣のヒーロー」として活躍し続けることが示唆される。結局、スパイダーマンはいるかもしれないし、いないかもしれない。フェイク/フィクションかもしれないし、現実かもしれない。そんな「間」に彼はいるんだよ、と。』
(P89〜90)

だが、河野のこうした理解は、覚悟を決められないがゆえに判断を保留したい自身の立場に、スパイダーマンを引きつけて正当化しようとしたための、半ば故意の「誤読」なのではないかと、私はそのように疑っている。

つまり『結局、スパイダーマンは』以降に示された河野の「理解」とは、それこそ結局、「有名になり賞賛される」のを当然のこととして求めてしまう「欲深い凡人」の感覚によるヒーロー理解でしかないのではないのか。
しかしながら、ヒーローの「覚悟」とは本来、この(3作目の)ラストが示すような、「重い」ものなのではなかったかと、そう考えるのである。

どうやら、私の考える「ヒーロー」とは、流行には関係なく、おのずとやはり「古いタイプ」ということになってしまうようだ。

ヒーロー像にも、時代によって変わる部分というのは確かだろう。しかしながら、私の考えたいのは、ヒーローの「本質」なのだから、それは時代によって変わるようなものであってはならないと、そうも思う。

ヒーローは、人からどう評価されようが、つまり『フェイク/フィクションかもしれないし、現実かもしれない』とそんなふうに、その存在を否定されようとも、彼はただ自身の使命を果たそうとするような存在なのではないか。
自分がここにいるという事実は、他人は認めなくても、少なくとも自分自身は知っているからであり、決してそれは『そんな(※ 現実と虚構の)「間」に彼はいるんだよ』というような、そんな曖昧な存在ではあり得ないのである。

ヒーローとは、「他人の評価」を前提として、やってもいいし、やらなくてもいいような、そんなものではなく、自身の信ずるところにおいて正義をなすしかない存在。しかもそれが、「独善」ではなく、誰にも真似ることのできない「孤高」の謂いなのではないだろうか。


(2025年2月28日)


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