嶽本野ばら 『純潔』の、結末の変更について
書評:『新潮』2015年2月、嶽本野ばら『純愛』掲載号(新潮社)
本稿は、『新潮』2015年2月号に一挙掲載された、嶽本野ばらの長編『純愛』をもとに、大幅加筆しタイトルを『純潔』と改めて2019年7月号に刊行された単行本版を読んだ後に書かれたものである。
私が、単行本読了後に、このようにわざわざ初出誌に遡ったのは、単行本版つまり『純潔』があまりに素晴らしい作品であっただけではなく、その「跋」に著者が「この作品は、本来、千枚の長編として書かれたものを「新潮」誌掲載用に430枚まで削り、単行本化にあたっては大幅加筆した」ものであるとし、このような『過程を記すのは、二〇一五年の「新潮」(※ 『純愛』)と改訂版(※ 単行本『純潔』)では、結末が異なるからです。』と書いていたからである。
ここで、この「結末の変更」内容を紹介してしまうのは、未読の方の興を削ぐことになるから具体的には書かないが、先に単行本『純潔』を読んだ後に「新潮」掲載版のラストを確認した者として言うなら、やはり単行本『純潔』版の結末の方が正解だったとしか思えない。
これは何も、単行本を先に読んだ方だから、そちらのインパクトが強いということではないと思う。
と言うのも、単行本『純潔』の結末に多少の引っかかりを覚え「こうしたのか」と思わずにはいられなかった部分がある一方で、それでも「新潮」掲載版の結末を知らない段階で書いた、単行本『純潔』のレビューのタイトルを「心ゆさぶる〈エクソダスの扉〉」とした者としては、「新潮」掲載版の結末よりも、単行本『純潔』の結末の方が、本作にふさわしいと考えたからだ。
つまり、すこしボヤかして書くならば、「新潮」掲載版よりも単行本『純潔』の結末の方が「エクソダスの物語」にふさわしいと思えるからである。
旧約聖書に描かれた物語では、エジプトで奴隷になっていたイスラエルの民(ユダヤ人)を率いた、エジプト脱出のリーダーのモーセは、40年の放浪の後、やっと「約束の地」にたどりついたものの、彼だけは、そこに入れなかったのだ。
ともあれ、単行本『純潔』は傑作である。未読の方は無論、「新潮」掲載版を読んだ方にも、ぜひ読んで欲しい。
以下に、単行本『純潔』について書いた、Amazonレビューを収録しておく。
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まごうかたなき「傑作」である。嶽本野ばらを読んだのはひさしぶりだったが、嶽本は変わっていなかった。いや、かの挫折をへて確実に成長していた。何者をも否定しない作家になっていた。
本書は、ラノベのごとく読みやすい作品ではあるものの、人の心に問いかけ、揺るがし、食い込むことで、その人を変えてしまうような「非常の力」を持った「文学」作品だ。嶽本野ばらの「新たな代表作」が、ここに誕生したのである。
文芸評論家の川本直が、『純潔』(2015年バージョン)の掲載誌である『新潮』に、今回の単行本刊行をうけてレビュー(「嶽本野ばらは気高き理想という旗を掲げる――『純潔』論」)を書いているが、川本はそこで『私はこれまで読んできた同時代のすべての小説より『純潔』に心を動かされた。虚無に覆い尽くされた世界に燦然と輝く光がここにある。』と結論し、そう言い切っている。
これが版元掲載誌でのレビューだけに、提灯持ちではないかと眉に唾する人もいるだろう。それは当然のことだが、私は一介の読書家として、川本の誠意を保証しよう。彼はまちがいなく本気でこう書いたのだ。書かずにいられなかった。それほど、本作『純潔』は、心揺さぶる作品なのである。
川本の前記レビューでも指摘されているとおり、嶽本野ばらは「乙女のカリスマ」と呼ばれた小説家であり『それまで陽の当たらなかった者たちの声なき声を小説の世界にもたらしてきた』作家だ。
嶽本の言う「乙女」を、私は「自らの美意識に殉ずる生き方」の象徴だと考える。世間の考える「利口な生き方」に妥協することなく、世間からバカにされ見下され、様々な不利益を被ることになろうとも、自分の美意識を決して手放さないで生きていく。そんな生き方を、嶽本野ばらは「乙女」と呼び、それに共感した多くの少女たちが彼を支持したのである。
嶽本は、ブログのエッセイで「編集者から、40歳以上が読める小説を書け」と助言されたが「それは書けたとしても、書きたくない」という趣旨のこと語っている(ブログ『嶽本野薔薇的博客』「7・29「純潔」発売」2019-07-11)。編集者としては、少子高齢化が進む日本で、作家が生き延びていくには、高齢者に読まれないと話にならない、ということなのだろうし、それ自体は至極もっともなことなのだろうが、嶽本野ばらという作家は、もともと自らが「少数者」であり「少数者」のために「少数者」たちの声を代弁してきた作家なのだから、マスにウケるものを書けというのは、善意の助言ではあれ、およそ見当違いなものなのである。マス受けをするような作品を書いたときこそ、嶽本野ばらという作家は本当の意味で死ぬのだから。
そんな嶽本野ばらが、本作で扱うのは「政治活動家」と「オタク」である。
およそ対局的な存在と見られる両者だが、両者に共通するのは「世間の無難な世渡り」を退けて、自らの信ずる「美」に挺身するその態度だと言えるだろう。本作の中で「ガチオタ」として登場する、主人公の先輩は、世間の理解を得られないであろう政治活動にその身を投じようとする主人公に『白い眼で 観られてなんぼが オタの道』という「川柳もどき」の言葉を贈る。この言葉こそが、まさに「政治活動家」と「オタク」を結ぶものだなのだ。
「世間の理解」を得られないのは百も承知している。それでも愛するものを愛し、信じるものに自分を捧げるのに、どうして「世間の理解」など必要であろうかと。
昨今「承認欲求」という言葉が、ネット社会のキーワードとして語られることが多い。
ネットの普及によって、自分の存在をアピールするための各種の道具が与えられたからこそ、人は「もっと私を見て!(評価して欲しい)」と思う。自分の周囲の人ばかりではなく、見知らぬ人が、遠くの人が、時には外国の人までが、私を素晴らしいと評価してくれたら、どんなに素敵なことだろうと、多くの人は考えてしまう。これは「有名」であること「肩書き」を得ることに憧れる、ごく当たり前の人間心理であり、決して若者だけの話ではない。
しかし、言うまでもなく、すべての人が有名になることなどない。注目とは「一部の人」が対象だからこそ、注目なのだ。すべてを注目するなどといったことは、語義矛盾なのである。
つまり、大半の人は、注目されることなどない。注目されることなどないのに、注目されるための道具(SNS)を与えられているからこそ、その満たされない欲望を諦められない無間地獄へ堕ちることにもなるのである。
ネット普及以前なら、特別な才能などない「普通の私」が、世間の注目を浴びるための道具などなかった。だから、比較的簡単にそれを諦めることもできたのだが、今は、なまじ道具を与えられているが故に、人は「承認地獄」に喘ぐことになる。
そして、そんな人たちから見れば、「政治活動家」や「オタク」というのは、「世間の評価」から下りた「負け犬」に映るだろう。「私たちの方が上だ」と、上から目線で見下しもするだろう。「世間の評価」がすべてであり、それによってしか自身を評価できない人にとって、「世間の評価」から下りた彼らは「理解不能な異物」であり「気持ち悪い存在」でしかない。
当然なのだ。「世間の評価」から下りた彼らは、「世間の評価」という価値観の相対化し、その限界を突き破って、その先の「異界」を覗かせてみせるのだから、彼女・彼らが、「この世界」である「世間」の評価にしがみついている人たちにとって「不愉快な存在」とならないはずがない。
だが、「世間の評価」から下りた彼女・彼らが覗かせてくれる「異界」とは、じつのところ「エクソダスの地」なのだ。
そこにひろがるのは荒漠たる砂漠かもしれないが、しかし「世間」という主人の評価から自由になれる、「隷属」を断ち切れる「自由の天地」なのである。
人間というものは、どんな「環境」にもそれなりに馴染む、環境適応性の高い生き物なのだが、しかし、それにも限界がある。その証拠が「承認地獄」でもあろう。奴隷であるかぎりは、主人に評価されなければならない。評価されない奴隷は、無価値な存在として、貶められても仕方がないのだ。
だが、「エクソダスの地」では、自分を評価するのは自分でしかない。自分の思うままに「自由」に生きるが故に、人の評価など気にする必要などない。しかし、生きるも死ぬも、自己責任なのだ。その覚悟が、多くの人には持てないのだが、「政治活動家」や「オタク」というのは、そうした選択をした人たちなのである。
だから、彼女・彼らは「美しい」。
本作中では、しばしば政治的な議論がなされ、難しい理論が語られる。けれども、それをそのまま理解できなくても良い。そこで見るべきは、彼女・彼らの「一途な熱量」であり、その「美しさ」だ。
そこにおいては「政治活動」と「オタク趣味」の間に差別などない。そこに表れるのは「生の純粋性」だからである。
本作の登場人物たちは、「政治活動家」であれ「オタク」であれ、その「熱量」において徹底的であり、そのゆえに「美しい」。
作中で、プロのマンガ家でありながら、自分の描きたいものを描きたいが故に、損得抜きで同人活動を続けている女性が、マンガのネームについて、次のように語る。
ものを作る人間なら実感としてわかるだろう。
例えば、優れた「文学」作品とは、優れた「意味内容」を伝えるものではなく、それをも道具として「計測不能な熱量」としての「人間(の存在そのもの)」を伝えるものなのだ。
「意味内容」だけなら、哲学書や研究書を読めば良い。しかし、「文学」がまず伝えるのは「意味内容」でも「言葉になるメッセージ」でもなく「著者の存在(の熱量)」なのだ。だからこそ、文学に要求されるのは「文体」なのである。
「文体」は「作家の生の反映」であるし、そうであらねばならない。そうでないものは「文体を持たない」と評される。
したがって「文体」は、単なる情報伝達の道具としての「読みやすさ」になど還元できるものではない。読みやすいに越したことはないけれども、しかし大切なことは「著者の存在(の熱量)」をそのまま反映する「文体」なのだ。
例えば「道を歩いていたら、むこうから車が走ってきた」というような、誰でも書ける文章でも、そこにその人に「存在としての熱」が滲み出るような、非凡な「文体」でなくてはならない。
同じようなことを書いていても、一方ではまったく何も感じないのに、もう一方ではなぜかひどく心が揺さぶられてしまう。そこには「文体」の有無があり「作家の生(の熱量)」の有無があるのである。
そして、嶽本野ばらの『純潔』というこの作品も、そういう「文体」をもった、まごうかたなき「文学」作品である。本作は、読者の心を、激しく強く揺さぶらずにはおかないはずだ。
だからこそ、「世間の評価」を内面化し固着させる前に、つまり、できれば多くの若者たちに、本作を読んで欲しい。多くの若者が、それまでの人生で示されたこともなかった「エクソダスの地」の存在、それがそこに示されているからだ。
エクソダスの可能性を知り、それに魅せられた読者は、「世間の評価」から、道を踏み外すかもしれない。あるいは、怖れをなして、急いでその扉を閉めてしまうかもしれない。それならそれで仕方がないけれど、しかし、その「エクソダスへの扉」の存在を知る機会を持たないというのは、不幸以外のなにものでもない。
選択するのは読者自身だ。しかし、選択肢の存在を知らなければ、読者にエクソダスの自由はない。
無論、ぬくぬくとした隷属の地にあって、その扉のノブに手をかけることは容易なことではない。けれども、その存在を知らないというのは、あまりにも不幸だ。
ここに「エクソダスへの扉」がある。
そこから出ていくかどうかは、その存在を知ってから考えれば良いことだ。
だから読者よ、本書を手に取るべきである。
初出:2019年8月23日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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