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忘れられた〈個人〉の尊厳

書評:樋口陽一『リベラル・デモクラシーの現在 「ネオリベラル」と「イリベラル」のはざまで』(岩波新書)

「one for all, all for one」(一人はみんなのために、みんなは一人のために)という言葉がある。
昨年、たいへん盛り上がったラグビーワールドカップについて語られる時にもよく使われた言葉だが、しかし、その使われ方は、どうにも「みんなが主で、一人は従」というニュアンスが強く感じられて、いささか鼻についた。
つまり「みんなのために、一人ひとりが犠牲的に貢献するというのは、素晴らしい行ないだ」という、悪く言えば、かの「滅私奉公」の「美徳」が、表現を変えて復活しているようにも見えるのである。

しかし、語源的な意味がどうあれ、この言葉が正しく機能するためには、やはり「一人が主であり、みんなが従」でなければならないはずだ。

もちろん、「一人のスタンドプレイヤーや、一人の権力者のために、みんなが滅私報告して、国をもり立てよう」という話ではない。
当然のことながら、あるべき意味とは「私たちは、個々の人間であり、その個々が、それぞれ一人の人間として尊重されるために、お互いに協力し合わなければならない」という意味である。

つまり、「みんなのために、自分が犠牲的に貢献するのは素晴らしい」という、気分的(しばしば「感動的」)な「きれいごと」に酔っていると、力を持たない者は、力のある者、つまり権力者によって、良いように利用されるだけだ、ということである。

じっさい、「国家よりも個人を」というリベラルな考え方を嫌う、安倍政権周辺の「日本会議」関係者や「ネット右翼」たちだって、ソ連社会主義の標語であった「一人は万人のために、万人は一人のために」という言葉を聞けば、それが結局は「個人を国家に従属させるものにしかならなかった」と批判することだろう。
つまり、「一人はみんなのために」という標語の危険性というのは、政治体制の左右の問題ではないのである。

著者は、本書において「個人」というものの重要性を、歴史と法に照らして、再強調している。
その重要性が見失われたからこそ、「デモクラシー(人民主義)」が、今のように人民(自ら)を縛るものとなってしまっているからである。

著者は、日高六郎の、次のような言葉を引用紹介している。

『われわれには集団に対する義務のほかに自己に対する義務というものがある。そして自己に対する義務を放棄することは人間であることを放棄するに等しい。』(P71)

言うまでもなく、『集団に対する義務』に対置されるかたちで強調された、ここで言う『自己に対する義務』とは、近年、保守的な人がよく批判として口にする「自分の権利ばかりを主張する」ような態度を指すものではない。
「自己」というものは、「社会契約的に、相互にあたえられた人権」というものを担う主体であり、そうした「人権」を担う義務が課せられた主体だ、という意味である。

それぞれが、その自覚を持って、自分のものである「人権」というものを考えれば、当然のことながら、他者の人権についても、それを軽視することはできない。人権とは「すべての人に与えられているもの」だからこそ、自分の人権を大切の守り育てるという責任ある態度は、そのまま、他者の人権についても最大限に擁護し、それを規制しようとするものには対峙する、という態度を必然化するだろう。

しかし、「人権」というものについて、それが『自己に対する義務』だとは少しも考えずに、「他人が主張するもの」であると考える(誤解する)ような「被害者意識」の強い人が少なくないからこそ、今の社会には「個人の権利よりも、集団の権利を」「集団があっての個人だ」という、(「2012年自民党改憲草案」のような)「倒錯的な認識」が生じてしまうのである。

現代世界において、私たちの「リベラル・デモクラシ−」を挟撃している「ネオリベラル(新自由主義)とイリベラル(反自由主義)」とは、前者が「個人を顧みない思想」であり、後者は「個人を憎む思想」だと言えるだろう。
こうした、アンチ「リベラル・デモクラシ−」の「二つの立場」の根本的な錯誤は、自分もまた「個人」であるという、事実についての無理解である。
自分を「個人」であると正しく理解しているならば、相互に存する「人権」を無視して、「個人としての他者」を蔑ろにしたり、「自分とは異質な他者」として憎み排除しようなどとは「思えない」だろう。
そこでは、「個人」という「人権の主体」の意味が見失われているからこそ、「私」と「他者」が「同じ個人(シチズン)」だということを忘れて、「他者」を排除しようとすることになるのである。

だから、私たちはここでもう一度、「個人」ということの本当の意味を、理解する努力をしなければならない。
なぜ、夏目漱石が『私の個人主義』を主張したのか。それは決して「我が儘勝手」を主張したものではないのだ。漱石が、誤解を覚悟で、あえてこう表現した理由とは、「個人」が蔑ろにされるところには、まともな「共同体」など成立しない、という事実を喝破していたが故なのである。

初出:2020年1月23日「Amazonレビュー」

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