「あいつを呼ぼうぜ」と言われる人を目指してきた
高校のとき、わたしはどこかのタイミングで糸井重里さんの文章に出会った。糸井さんの文章はわたしの考え方や、文章の書き方など、多方面に影響をもたらした。
そのうち、とくに影響を与えてくれたひとつが、下記のコラムだ。
ぼくは、なぜだかわからないけれど
「あいつを呼ぼうぜ」と言われる人がいいと思っている。
(中略)
なんだか知らないけれど「いたほうがいいやつ」、
「あいつがいたら楽しいだろうな」と思わせるやつ、
そういうやつこそが、ぼくの考える人間の理想なのだ。
(中略)
一番になることにくらべて、
「あいつ呼ぼうぜ」がいいのは、そういう存在に、
誰でもなれることだ。
そういうやつが、何人いてもかまわない。
それどころか、
「世界中の人間が『あいつ呼ぼうぜ』になりますように」
って、看板立てたくなっちゃうくらいのものだ。
(中略)
いい意味で、余裕とかヒマとかを所持してないやつは、
「あいつ呼ぼうぜ」って言ってもらえないんだよなぁ。
※2005年11月28日付,ほぼ日刊イトイ新聞「ダーリンコラム」初出
https://www.1101.com/darling_column/2005-11-28.html
糸井重里,2012,『ボールのようなことば。』ほぼ日文庫.に一部収録
思い返せばわたしはずっと、そんな「あいつ」になることを夢見てきた。
難しくいえば「余人をもって代えがたい」やつ、やわらかくいえば「かけがえのない」やつである。
そうでもしなければ、自分の存在意義を見いだせないと思ったからだ。
わたしは「かけがえのなさ」を求めて、暴走した。
なにをはき違えたのか、多くの役割を担えば、かけがえのなさにつながると勝手に思ってしまったのだ。
その末に起きたのが、「権力集中」である。
高校時代、部活のしごとを淡々とこなしていたらいつの間にか部長を兼務していた。
そして、ふと気がつくとわたしなしでは成り立たないような環境になっていた。高校生とはいえそんな体制が、組織として健全なわけがない。
にもかかわらず、わたしはどこかそれに心地よさを感じていたし、忙しいことが楽しいとさえ思っていた。
「政治家みたいだね」ってよく言われた。
だけど強いて言えば選挙でえらばれる生徒会役員こそ「政治家」っぽくて、一方のわたしはカネをぶんどりたいだけの、いわば「圧力団体」みたいなものだったと思う。
結局わたしは体調を崩した。精神よりもまず細胞が悲鳴をあげていたのだ。
後継をうまく育てることができていなかったこともあって、部活はだんだんと「機能不全」に陥った。
決して自分のキャパシティが大きいわけでもないのに、誰かに頼られることが喜びだった。結局のところどこまでも「自分本位」だったのだろう。
あれはダメだと、その反省を強く持っていた。だからこそ、大学のとき役割を担うことを極度に嫌がった。
ところが、またあるしごとで、気がついたらわたしは右手を挙げて名乗り出ていた。
絶対に同じ過ちを繰り返さないとの信念のもと、なるべく多くのメンバーと「会話」をして、不満がたまらないようにつとめた。
しかし、やっぱり「権力集中」は生まれた。このときは、まわりが「ついていけない」とか、「強権的でこわがっている」というのではなく、とにかく頼ってきた。
夏休みは、毎日のように業務連絡がきた。いくら外出してようが、お盆だろうが関係なく電話もかかってきた。内容はほとんど「どうしたらいい?」というような主旨のもの。
それでもいいんだ。だって頼られてるんだもの。報連相につとめてくれているんだもの。
ここでまた体調崩したらヤバいな…と思いながらしごとしてた。そんな悩み、誰にも言わなかったけど。
やっぱりわたしはどこまでも頼られたいひとなのである。どうしようもない。
でも、「あいつを呼ぼうぜ」と言われる人であるために、自分を殺すようなことはしていない。そこそこ好きなようにやってきた結果が、これなのである。
しごとに限らず、わたしじゃなければ聞けない話、得られない感覚、過ごせない時間を提供したいと思っていまも生きている。
だからこそ、「おまえだから打ち明ける」「あなただから話せた」みたいに言われたときは、ありがとうごぜぇやす!ってなる。チョロい。
ところが、よく考えるとそれってあくまで「〇〇長」とか「○○の弟」、「緩衝材」といった「役割」越しでみられているのであって、「わたし」そのものがみられているのではないのではないか、とも思えてくる。
ダメだ。これは考えちゃいけないヤツ。やめよう。うん。
結局、なんだか糸井重里さんの文意とはかけ離れてしまった感があるけれど、わたしはいまも、かけがえのなさをどこまでも求めている。
なにせ、いざふとしたときに思いだしてもらえるような人間ってそこそこ尊いと思うんだ。と自己弁護してみる。
やっぱりほんとどうしようもないな。