先生はまだ生きてるんだぞ
高校のときの部活の顧問が、こたびの感染症に倒れた。
数ヶ月にわたる闘病生活を経て、このごろ退院の兆しがみえてきたらしい。
そう、それでこそ我が元顧問。
簡単に死なれちゃ困る。困るのだよ。
せっかくなので快癒をねがって、これまでの恨み言を並べてみようと思う。
元顧問はわれわれの入学と同時に赴任してきたのだったが、いろいろな文化部の顧問をしてきた実績と行動力があった。
当時の部活は部員二名。そこにわたしがなぜか入部して三名になったところで、顧問が入部希望者をスカウトしてきた。
ん?スカウト…?
違和感があったけどこのときは特段気にしなかった。
そうして増えた部員とともに、顧問のひと声で毎月一回、休日に校外で撮影会をおこなうことになった。
顧問はさらにもうひと声かけてきた。
言われたときはなんのことかさっぱりだったけど、撮影会当日、よーくわかった。
水辺でキャッキャウフフする女の子たちにカメラを向けて満足するそうにする顧問。
はぁ…。
このとき、わたしのため息レベルは1に達した。
あるとき、
まさかの顧問からの逆提案。
しかし当時はあまりに部員も少なく、男女比も安定しなかったため、こちらからお断りした。
その際、わたしが代替案として示したのが、港町・横浜で日帰り撮影会をするというもの。
顧問は満足そうにしていた。
当日の顧問は、まるで部員女性陣を接待するかのごとくの大盤振る舞い。
どうやらこれがやりたかったらしい。
はぁ……。
ため息レベルは2に達した。
顧問は、チア部のショーに並々ならぬこだわりをもっていた。野球の試合のときになるといつも、カメラのレンズの先はダイヤモンドではなくスタンドに向けられていた。
チア部にお気に入り女の子を見つけた顧問は、持ち前のネットワークを使ってクラスと名前の特定に奔走した。無事特定に成功した顧問は、彼女をクラス替えで自分のクラスに引きこんだ。
はぁ………。
これでため息レベルは3。
翌年。
部員が増えたこともあって晴れて合宿に行くことになった。
顧問のいちばんの主張は、
合宿で浴衣と花火の構図を撮りたい。
というものだった。
そのうえで、女性陣限定で合宿の持ち物に浴衣を盛り込もうと画策してきた。
浴衣と花火、女の子の3点が頭に浮かびまくりの顧問に対して、わたしは計画立案に奔走した。
宿とバスの予約、行程全般、そして保護者から募る参加費用の調整…。たぶんこれ、高校2年生がやることじゃない気がする。
仕上がった計画と必要費用の見積もりを顧問に投げて、正式な文書を作成してもらう。もちろんこのとき持ち物には浴衣を除外した。意地を見せた。
はぁ…………。
合宿はめちゃくちゃ楽しかったけど、それまでの過程でため息レベル4になった。
わたしが病気で倒れた直後、顧問は他クラスの担任ながら学級通信でわたしの件に触れた。
それがやたらと名文だったおかげで、校内の先生方のあいだでバズった。でも、その文におけるわたしは、やたら「好青年」に描かれていて、どうも自分のことのようには思えなかった。
それよりも、許諾もとらずにわたしの近況を誇張して拡散すなあああ……………、という気持ちが強かった。
これで、ため息レベル5。
ここまで怒濤の恨み言の連続になったおかげで、顧問がひたすらにヤバイやつに思えてきてしまうかもしれない。
でも、わたしはいまも顧問のことがひととして好きだ。やれやれ…と思ってきた以上に、先生として尊敬していた。
あんなに面白い授業をできる先生なんて、そう滅多にいないからだ。
いつもいつでもわたしに丸投げみたいになっていたのは、わたしを信用してくれた結果、なのだと思いたい。
それに、顧問はわたしの文章を高く評価してくれたうえに、小論文で悩むわたしに「文才ある」と背中を押してくれた。面と向かって言ってもらえてすごくうれしかった。
それはきっと、どれだけ歳を取ろうが変わらないのだと思う。
どこかふしぎで、煩悩むき出しなその顧問は、なんだかんだで多くの教え子から愛されていた。このことからは、人柄がいいと日ごろの行いがアレでも周囲のヘイトを貯めずに済むということを学んだ。
そんな顧問はいま、人生最大の危機を乗り越え、再び社会で生きるための闘いを続けている。
ぜひともふたたび教壇に立ってほしい。
そして、教え子たちがどう生きているかについて、もう少しだけ責任をもって見届けてほしい。
だから、まだ生きているべきなんだよ、先生。
たとえ声が枯れてでも。
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