恋にならなかった好きな人のこと
中学2年生の2学期初日、私は1学期の終わりに心に決めていたことを実行した。
それは、今まで連んでいた子たちと一緒にいるのをやめて、新しい友達を作ることだった。
2年生になってから、同じクラスのKちゃんの事が気になっていた。小柄でいつもニコニコしていて八重歯が可愛い。
あの子と仲良くなりたい。
そう思うものの、その子とは小学校も違ったし、部活も違う。共通の友達がいないため、全く接点がなかった。
私はその時、小学校も部活も一緒のSちゃんCちゃんと連んでいた。3人グループというのは難しい。
夏休み前には何かのきっかけでふたりに嫌われ、ハブられている状態だった。
離れるならこのタイミングだと思った。このふたりとはもう仲良く出来なくてもいい、それよりもKちゃんと話してみたいという気持ちが強くなっていた。
夏休みが明けてから、私は休み時間になるとKちゃんの席に遊びに行った。Kちゃんはいつも絵を描いていて、私はそれを眺めたり、Kちゃんが好きな漫画を教えてもらったりして、少しずつ仲良くなった。
10日ほど経った頃だろうか。Sちゃんから手紙を貰った。そこには
「ねむちゃんみたいな子に付き纏われて、Kちゃんも迷惑だと思うよ。優しいから言えないだけで嫌だと思うよ。Kちゃんがかわいそう。Cちゃんも同意見です。」
という内容のことが赤いペンで書かれていた。
手紙のことを話すと、Kちゃんはツボにハマったように笑い出して、
「どうしてそんなことが書けるんだろう。面白くて笑っちゃう。ねむちゃんのこと迷惑と思ってないよ。ねむちゃんと仲良くなれて嬉しい。」
と言ってくれた。
私は驚いた。
Kちゃんに話していなかったら、私はきっとひとりでムカついてイライラして悲しくて傷付いていたと思う。
だけど「面白い」と言ってKちゃんが笑ってくれたので、私も負の感情に支配されることなく穏やかな気持ちのままでいることが出来た。
Kちゃんと仲良くなる前の私と言えば、いつもイライラしていて、性格が悪くて、口も悪くて、だからつり目のブスで、友達もそれほど好きじゃなく、学校は楽しくなかったのだけど。(第一次ブス期)
Kちゃんと一緒にいると、イライラすることがなくなった。
それはある日Kちゃんに言われた言葉に考えさせられ、そしてある事に気付いたからだった。
私と同じ部活に、自己中心的なM子がいた。
ある時、私はKちゃんに
「M子はどうしてあんなにいつも自己中なんだろう。絶対に自分が正しいと思ってるからみんな嫌がってる。」と愚痴った。するとKちゃんは、
「私はM子ちゃんのこと嫌いじゃないよ。M子ちゃんはいい子だよ。」
と言った。
はて。M子がいい子とは。
私は何故Kちゃんがそう思うのかを考えた。
M子は真面目で勉強も部活も頑張り屋だ。
正しいと思った自分の意見を、たったひとりでもちゃんと主張するのってすごいことだよな。
皆んなと意見が違うからって、間違ってるとか悪いとかじゃないよな。
大勢と違う視点や感覚を持ってるって、(学校の集団生活には向かなくても)特別なことかもな。
私なりにM子のことをこんな風に考えた。
そして、赤字の手紙の時もそうだったように、Kちゃんがいつでも相手をマイナスに受け止めないのは、常に客観的に物事を捉えているからではないかと気が付いた。
私は全てを主観で受け止めていた。人からの言動を顔面でキャッチするから、一歩引いて咀嚼する余裕がなくてすぐにイライラしてムカついていたのだ。
悪意がなければ全て許されるという訳ではないけれど、みんな、誰かにとっての愛するいい子だ。
私は180度性格が変わった。他人の理解できない言動があっても、そういう考え方もあるんだ、と受け止める事ができるようになった。誰かや何かにイライラしなくなって、生きるのがとても楽になった。
Kちゃんと過ごす学校生活はとても穏やかで楽しかった。
母親が面談で「2学期になったら急に鎧を脱いだみたいに柔らかくなってびっくりしてる。ピリピリしてたバリアがなくなった。」と担任から言われたそうだ。
私は、Kちゃんが大好きだった。
自分から人に興味を持ったのはKちゃんが初めてだった。仲良くなりたくて自分から話しかけたのも始めてだった。一緒にいて嫌な気持ちになることがなく、居心地が良い子は初めてだった。
ずっと一緒にいたかった。
Kちゃんがたまに、学校が嫌い、学校に来たくないと言うことがあって、私はその度に(私がいてもダメなんだなぁ)と悲しい気持ちになった。
年度末が近づくと、Kちゃんはクラス替えをとても嫌がった。
「ねむちゃんと違うクラスになったら一緒にいられなくなっちゃう。」
と言う。
「もし離れても、休み時間は一緒に過ごせばいいじゃない。」
「同じ部活の子たちと一緒のクラスになったら、そういうわけにはいかない。」
同じ部活ってだけで、絶対一緒にいなきゃいけないのかな。
私は同じ部活の子たちと離れてKちゃんと仲良くなったので、一緒にいたい人と過ごせば良いと思った。
けれど母親にも、
「もし別のクラスになったら、ねむ子と過ごすのは難しいだろうね。ねむ子は部活でひとりきりでも大丈夫な性格だからこれまでやってきたけど、みんながねむ子みたいには強くないんだよ。」
と言われた。
そして、本当にその通りになった。
3年は別々のクラスになり、Kちゃんは同じ部活の子たちといつも一緒にいた。卒業までの1年間で、Kちゃんと話したのはたったの数回。帰り際に廊下で見かけて
「Kちゃん、バイバイ」
「ねむちゃん、バイバイ」
と言う程度。
もう、全然知らない子になってしまったように感じていた。
それはKちゃんも同じだったかもしれない。
中学を卒業して、別の高校に進学したKちゃんと、街や駅でばったり会うことが何度かあった。
するとその度に
「ねむちゃんと一緒にいた時が1番楽しかった。あの時に戻りたい。」
と言ってくれた。
私は胸がギュッと締め付けられた。
そんな風に思ってくれているなんてとても嬉しくて、もうあの時には戻れないことと、今一緒にいられないことがとても悲しかった。
前置きが長くなりましたが、
ここからが本題。
この数年、SNSでいろいろな方と交流をさせてもらう中で、これまで自分自身のセクシュアリティについては、真剣に考えたことがなかったことに気が付いた。
私は固定概念の中に自分をはめ込んでいて、はめ込んでいることにすら気が付いていなかった。
自分を好いてくれるのは男の子
自分が恋をする相手は男の子
だと思い込んでいたのだ。
疑いもしなかった。
でも改めて考えてみると、私が人生で初めて本気で好きになった人は、どう考えてもKちゃんだ。
私の性格と人生を変えてくれた。
優しくて穏やかで可愛い大切な人。
あのままずっと仲良くしていたら、
私が固定概念に縛られず心のままに行動していたら、
初めてお付き合いする相手はKちゃんだったかもしれない。
考えた末に自覚したことは、
私の恋愛対象は、相手の性別に関わらない、ということだ。
なんならセクシュアリティも関係ない。
ただもう自覚したのが数年前で、既に夫も子供もいたので、女性とお付き合いするという経験はできなさそうなのが、残念でならない。(?)
この記事を読んでくださった方も、ご自身のセクシュアリティについて、身近な人や子どものセクシュアリティについて、改めて考え、または分析をしてみてはいかがでしょうか。
Kちゃんが描いてくれた絵は私の宝物
最後まで読んでくださり
ありがとうございました。
【本日のヘッダー写真】
いつかの夕焼け
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