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植物好きの仏教カウンセラーが語る 「ずっと咲いていてほしい」は人のエゴ? 四季の庭が教えてくれる変化の美しさ




1. 変化があるからこそ、植物は美しい

ガーデニングは深く心を癒す。一体なぜだろう。おそらく「変化があるから」ではないだろうか。
人は人生の全てが変わっていく苦しみは耐えられないのに、庭や物語には変化を求める。ずっと咲き続ける花を求めながらも、開きゆく花のつぼみの変化の美しさに心を動かされる。

いつのまにか寒空に蕾がふくらみ、花が咲く。新緑は深い緑に変わり、やがて紅葉して散る。
植物を育てることは、ただ花を咲かせることではなく、「変わっていく姿を見守ること」「時期に適した対応」 なのかもしれない。


2.ずっと咲き続ける庭よりも

満開の花に囲まれる幸福を知ると、その状態を維持したくなる。いつでも変わらぬ美しさと花のある永遠の庭を夢見てしまうものだ。

私は花を求めてたくさんの苗を育ててきた。暑い夏の終わりにはビオラの種をまき、秋の終わりには翌年の春を夢見て種をまいて育ててきた。寒い春先の楽しみにクリスマスローズを植え、水仙やクロッカスの球根を植え、春の一瞬の華やぎのためにチューリップの球根を山のように植え付け続けた。

しかし、どこまで頑張っても、花はすぐに終わってしまい、なんとも情けない花のない鉢が増えるばかりだった。
ふと気づく。「ずっと花が咲いている庭は、本当に理想なのだろうか?」
 花ばかりを追い求めていたはずなのに、美しい葉の色や、秋に枯れゆく姿にも心が惹かれるようになった。庭に求めるものが少しずつ変わり、「咲くこと」だけでなく「移ろう姿」も楽しみたいと思うようになったのだ。


3.枯れることも楽しむ庭へ

庭は、毎日少しずつ変化している。花が咲くことだけが、庭の魅力ではない。芽吹きの瞬間、青々とした葉が揺れる夏の日、実が色づき、葉が散る秋、すべてが過ぎ去ったように見える冬の庭でさえ、どこかに生命の気配がある。
庭の中に、四季が巡っている。人生にどれだけのことが起きても、どれだけ悩んでいても、変わらず淡々とサイクルを回す姿にどれだけ励まされたことだろう。人の世の無常に打ちのめされるのに、植物の常に変わりゆく無常に勇気づけられるのだ。

そんな庭を四季を通じて楽しめるのがオーナメンタルグラスである。色とりどりの花が咲くわけではないが、春から夏の美しい葉の色、夏を楽しむレースのような穂、秋から冬の枯れた端正な立ち姿、どれも本当に魅力的だ。
以前は、真冬でもたくさんのビオラが咲き誇る庭だった。でも、「咲く」だけが庭の魅力ではないとわかり、「枯れること」も庭の一部として受け入れるようになった。

そう思えたとき、庭はもっと自由になり、私の心もまた楽になったように思う。常に変わることを受け入れ、枯れた姿も楽しむスタイルに変わったことで、自分の老いや変化もそんなふうに自然に受け入れたいと思ったのだ。
私もまた自然の一部。借り物の肉体はいつかお返しするもの。若くなくなっていくことも、肉体のケアが増えることも受け入れながら、四季のある庭のように時々の季節を受け入れることを学んでいったのだ。

春には春の装い、夏には夏の装いや過ごし方がある。なのに、人生だけはずっと春でいたい、もう秋なのに春であるかのように振る舞うのは間違いだったと思える。人生の季節を受け入れられなかったから、中2男子のような飲食をして身体に負担をかけて、肉体を労わることなく酷使し続けていたのだ。


4.庭は無常を映す鏡

人は「変わらないもの」を求めながら、実は「変化の美しさ」に心を動かされる。ずっと満開であるよりも、咲くことも、枯れることも、楽しみたいのだ。
庭を眺めていると、植物が四季とともに変化するように、私たちの心も身体も変わり続けていることに気づく。

かつては、変化が怖かった。若さを惜しみ、時間の流れを否定するように無理を重ねていた。でも、庭の四季を受け入れるように、自分自身の変化も少しずつ受け入れられるようになった。
春には春の、夏には夏の過ごし方がある。なのに、私はいつまでも春でいようとし、自分の人生の季節の変化を認めることができなかった。だからこそ、自分の身体を労わることなく酷使し、負担をかけ続けてしまったのだ。借り物の身体なのに、好き放題に使い、壊してしまっていた。

でも、庭は静かに教えてくれる。今の季節を受け入れ、その時々の美しさを楽しむこと。変化を恐れるのではなく、今、この瞬間の自分を大切にすることを。庭とともに生きることで、私はようやく、自分という「変わりゆくもの」の美しさを心から愛せるようになったのだ。


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