トリック・オア・ハニー!
濃い砂糖水がたっぷり入ったバケツを巣箱のそばに置くと、すぐに蜜蜂が集まってきた。足場として砂糖水に浮かべた割りばしの上に降り、一生懸命に砂糖水を吸っている。大丈夫そうだ。厳しい冬に備えて栄養を取ってもらわなくては。
立ち上がり、20個はある巣箱を日当たりの良い場所に移動させる作業に移る。一気に移動させられれば簡単な作業なのだが、巣箱を急に大きく移動させると蜜蜂が迷子になってしまう。なので1日に30cmくらいしか動かせない。意外と神経を使う作業なのだ。
重い巣箱を慎重に抱えて位置をずらしていると、こちらに向かって歩いてくる人影が見えた。近所の人ではなさそうだ。まだ秋だというのに、派手なファー付きの黒いロングコートを着ている。腹ペコの蜜蜂のように、よたよたと歩いていた。
「……おーい!大丈夫ですか?!」
養蜂場を通り過ぎていく寂し気な後ろ姿が気になって、つい声をかけてしまった。驚いたように振り返った見知らぬ人は青白い顔をしていて、へなへなとその場にへたり込んだ。慌てて駆け寄る。
「だ、大丈夫じゃないですよね?!救急車、呼びますか?!」
「いえ、驚いて腰を抜かしただけなので……少し休めば大丈夫です。お気遣いありがとう」
「じゃあ私の養蜂場で休んでってください。イスがあるので。水しか出せませんけど」
肩を貸して立ち上がらせ、養蜂場に戻る。顔を近くで見ても年齢や性別は分からない。たぶん大人だとは思うが、異様に体重が軽い。なんとかイスに座らせて水を注いだ紙コップを渡す。
「本当にありがとう……ううう、こんな、吸血鬼失格の僕に優しくしてくれるなんて……ううう」
急に泣き出して驚いた。吸血鬼?見た目は確かに吸血鬼っぽいが……そんなわけないだろう。
「ああ!吸血鬼のコスプレされてるんですか?そろそろですもんねハロウィン」
「僕は本物なんです!不老不死ですがニンニクを食べると1週間は寝込みます。吸血鬼の力を維持するために人の生き血も吸いますが、10年に1回、小さじ1杯くらいの量しか飲みません。でも僕は昔から血の味が大の苦手で……。僕たちはハロウィンの時期に仮装行列に混ざって、人間の血を吸います。仲間たちは甘くて美味しいって言うんです。でも僕には苦くて酸っぱくて泥みたいな舌ざわりに感じて……ううう……飲みたくない……」
顔を覆ってまた泣き始めてしまった。私はからかわれているのだろうか?しかし本気で泣いているようだ。なんとなく首筋を手でガードしながら聞いてみた。
「あの、血を飲まれた人はどうなるんでしょうか?吸血鬼になっちゃう、とか?」
「うう、ぐすっ、吸血鬼にはならないです。虫刺されくらいの小さい傷跡が残るくらいですよ。吸う時は催眠術をかけるので痛くないです。たぶん」
「そ、そうなんですね」
首のガードを解いて息を吐く。
「あれこれと理由をつけて血を飲むのを避けてきましたが、もう今年のハロウィンには新しい血を飲まないと僕は消滅してしまうのです。貧血でふらふらして、散歩中に人間界に迷い込んでしまうくらいだし……。でも憂鬱です」
「点滴で血を入れるっていうのは?」
「何度も試したんですが、僕らの身体の構造では無理でした」
「そっか……」
困り顔の吸血鬼を見ていると、なんとかしてあげたくなる。うーん、と考えていると閃いた。試してみる価値はあるだろう。
「吸血鬼さん、ちょっと私の家に来ません?」
冷蔵庫から黄金色のガラス瓶を取り出して、テーブルに置いた。吸血鬼は瓶を興味深そうに見つめている。
「去年収穫したハチミツの残り。栄養たっぷりだから、食べれば元気になるかもと思って。ほら、スプーンですくって舐めてみて」
冷たい手にスプーンを持たせて瓶を開ける。迷いながらもハチミツを口に含んだ吸血鬼は、目を輝かせた。
「……美味しい!ほぉぉ……身体が温まってきます」
「良かった。パンにかけて食べても美味しいよ。ちょっと待っててね」
食パンを焼いて戻ると、吸血鬼の顔の血色は驚くほど良くなっていた。
「ハチミツのおかげで、なんだか吸血鬼の力がみなぎってきました。あなたは命の恩人だ。本当にありがとう」
両手の握手を求められ、戸惑いながら手を差し出す。さっきまで冷たかった吸血鬼の手はとても温かくなっていた。短い握手の後、すぐにパンにハチミツをかけて食べた吸血鬼は、また感動した様子だ。
「人間界にはこんなに美味しいものがあるんですね……!これは素晴らしい……!」
「そんなにお気に召していただけて何より。じゃあこれから時々ハチミツ食べにおいでよ。養蜂場の仕事を少し手伝ってくれたらお土産もあげるよ」
「えええ!いいのですか?!わっひゃーい!」
両手でガッツボーズをした吸血鬼の身体から、たくさんのコウモリが飛び出してきた。思わず叫んで腰を抜かす。
「ああっ!ごめんなさい!勢いあまってコウモリを出してしまった!僕が全部捕まえますから!」
必死にコウモリを捕まえようとする吸血鬼を見て、笑ってしまった。
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