うたかた宇宙とデコポン
緩い関係ほど長く続く、というのは本当らしい。仲間全員に挨拶した後、泡沫公園のベンチに座る。騒がしい周囲を見回した。見知った顔ばかりだ。誰も申し合わせていないのに、春になると皆、同時に泡沫公園に集まる。
日光の抱擁に、目を細めた。車の下で、ひたすら厳しい寒さに耐える季節は終わったのだ。それなのに、私は縮こまっている。
「デコポン先輩、お久しぶりです。今年もお会いできてよかった」
「君は、もしかして茶めし君?毛並みが見違えるほど綺麗になったね。久しぶり。お互い無事で何よりだ。噂で聞いたけど、黒ごま先輩が行方不明らしい。消滅、してしまったのかもしれない」
「僕も聞きました。屈強なベテラン猫又の黒ごま先輩が、消滅だなんて。僕たちも気をつけないと。猫の妖怪『猫又』でも、ストレスが溜まりすぎると消滅してしまいますからね。だから僕、最近ボランティア、という人間たちに色々お世話になってまして。餌に困らないし、気づいたら毛並みはピカピカだし。これなら、消滅は避けられるかなって」
「そうするといい。私も時々、ボランティアの人から餌を貰っているよ。猫又らしい孤高な生き方にこだわる猫又は多いけど、消滅したら元も子も無いもの。私たち、長寿ってこと以外、他の猫と変わりないし。少しくらい人間に頼ったって問題無いさ」
「そうですよね。これからも堂々と助けてもらおうと思います。デコポン先輩、ありがとう」
私が頷くと、茶トラの新米猫又、茶めし君はベンチから降りて走っていった。
顔を少し洗った後、黒い肉球を見つめる。消滅したと噂されている黒ごま先輩も、肉球が黒かった。毛色は黒ぶち。だから名前が黒ごま。分かりやすいだろう?といつも自慢してた。
猫又は、最初の飼い主がくれた名前を生涯使う。私は真っ黒な毛色なのに、デコポンと名付けられた。
黒ごま先輩は私の名前と毛色のギャップを気に入ったようで、すぐに弟子にしてくれた。私が一人立ちした後も、時々会えば母猫のように優しくしてくれた。
人が歩いてくる気配がする。皆、一斉に滑り台や花壇や、トイレの影に隠れた。僕は何となく、その場から動かなかった。
すぐ隣に、誰かが座る。鼻先に皺だらけの手が伸びてきた。ちらりと隣の人の顔を見る。おしゃれな花柄キャスケットを被った老婦人だ。ちょっと黒ごま先輩を思い出しながら、手に頭を擦りつけた。
「うふふ」
老婦人は楽しそうに笑い、背中も撫でてくれた。しばらくして、老婦人は大きなトートバッグから何かを取り出した。そしてなんと、口から大きな虹色の泡を出したではないか。
びっくりして固まる私をよそに、老婦人は次から次へと泡を吐き出す。よく見れば、笛のようなものを吹いて、泡を出しているようだ。なんだ、シャボン玉か。
「黒ちゃん、あなたは誰かに会いたくてたまらないの?」
言い当てられて、思わず耳と尻尾が動いた。「そうだよ」と返す。どうせ猫又の言葉は伝わらないけれど。
「泡宇宙説って、知ってる?宇宙というものは無数に存在してて、それぞれの宇宙はシャボン玉みたいな泡なんだっていう仮説。あり得ない、なんて昔は笑われたけど、私は今、正しいと確信しているの」
シャボン玉を見つめていたら、老婦人と目が合った。じっと、私を見つめてくる瞳は優しい。
「私はこのシャボン玉から、別の泡宇宙の地球に飛び込めるのよ。そして飛び込む度に、元居た場所に何か一つ、残すことができるの。過去にしか存在しないものでもオッケーよ。未来にあるものは、さすがに無理だけど。黒ちゃんの会いたい人、猫かしら?その人か猫を、ここに残しましょうか?」
老婦人の不思議な話を、僕は夢中になって聞いていた。あり得ない、と思うのに、老婦人の自信に満ちた声と視線に納得させられてしまう。「じゃあ、黒ごま先輩を、過去から連れてきて」と、また猫又語で言ってしまう。人間には、にゃおにゃお鳴いているようにしか聞こえないのに。
老婦人は、私の頭に手を置いた。じんわり、後頭部が温かくなる。
「黒ぶち柄の猫又の、黒ごま先輩、ね。あなたも猫又で、デコポンちゃんっていうのね。あらー、親子みたいに仲が良かったのね。可愛い」
え?と混乱していると、老婦人はシャボン玉を吹き、勢いよく立ち上がった。
「さぁて、そろそろ行ってきます。この泡宇宙の地球も楽しかったわ。次はどの泡宇宙にいけるかしら。どの泡宇宙に行けるかは、ランダムに決まるの。黒ごま先輩は、ちゃんとここに残していくからね。さようなら、デコポンちゃん」
えいっという小さな掛け声と共に、老婦人はシャボン玉の中に飛び込み、消えた。
「……あれ?お前は、デコポン、か?」
瞬きを数回繰り返した所で、老婦人が座っていた場所に、黒ごま先輩が出現した。驚愕と歓喜で固まっていると、周囲がシャボン玉だらけになった。
「っぷはっ!……あれ?デコポンちゃん……もしかして、元の泡宇宙に戻っちゃった?!」
シャボン玉から帰ってきた老婦人は、赤面して慌て始める。黒ごま先輩は状況が飲み込めず、オドオドしている。私は愉快でたまらず、仰向けになって転がった。