裏側の月の独り法師は開口一番
ランダムに数字を割り当てられる時、私は1番になる確率が高い。
どんな競争でも、上位に食い込めたことすらない。極力目立ちたくない、運動は苦手中の苦手という私にとっては、皮肉な運命でしかない。
「はい、では市民定期健診を始めます。1番の番号の方から、こちらの部屋にどうぞ」
うんざりしながら、私は大人しく立ち上がった。
「はーい。鏡に映った月をじっと見ててくださいねー。ヘッドフォンから音が聴こえたら、手を叩いてください」
定期健診の最後に、豪華な追加の無料検査を薦められた。ランダムに対象者を選ぶサービスらしい。1週間はかかると言われ躊躇したが、なぜか都合よく会社から有給休暇を与えられ、上司に受けるようにと説得された。
細かいことは気にせず、気軽に受けてみたが、様子がおかしい。これは、検査なのか?実験、ではないだろうか?
疑念は膨れ上がり、3日目には馬鹿らしい実験と確信した。頭に電極をベタベタと付けられて、むず痒い。ヘッドフォンから、「イチ」という声が聞こえた。
苛立ちを潰すように、両手を思いっきり叩き合わせる。
「残念ながら、あなたを元の場所に戻すことはできません。今後、あなたは表向き、宇宙研究施設の職員という立場になり、月のコロニーにある地下施設で厳重に監視されます。安全のためです。あなたを含めたすべての生き物の」
突然のとんでもない宣告に口が開く。
忌々しいクリーム色の患者服を脱ぎ、懐かしい地味な私服に着替えていた時、急にぞろぞろと入ってきた兵士たちに拘束されたと思ったら、ベッドで寝ていた。
白衣姿の男に、覗き込まれながら。
そして、軽いパニックに追い打ちをかける意味不明かつ理不尽極まりない宣告。
「……なに?……あ……ドッキリ?」
「誠に残念ながら現実です。他の研究員からは反対されましたが、私はあなたに事実を明かそうと思います。断っておきますが、その事実も嘘やドッキリじゃありません」
「は?事実?」
「早速お話ししましょう。この世の森羅万象には双子のような、そっくりの対となる存在があるのです。宇宙自体にも。秘匿されていますが、すでにその対となる宇宙空間が発見されています。その中に地球も発見されました。さらに、その地球に生きる私達も」
遠い異国の音楽や詩を聴いている気分だ。
宇宙?地球?双子?頭が痛い。
「その対なる宇宙は、私たちの宇宙とは逆方向に膨張を続けています。そのおかげで、私達の宇宙が安定して存在できるのです。ヤジロベエのように、お互いの質量で均衡を保っている。そして、それは私たちも同じ。私達も反対側の宇宙に対なる私達がいるからこそ、確かに存在できているのです」
白衣の男は、呪文のような言葉を切って、突然私の右手を握った。結構な握力で。痛い。
「しかし、あなたは例外なんです。あなたには対のあなたがいない。どこにも。真なるオンリーワンです」
オンリーワン。唯一。1。その言葉で、気分はマイナス側に急降下していく。
「それゆえ、あなたは危険と見做されます。あなたに関する全ての事象に、万物の存在の絶妙なバランスを壊す可能性がある。あなた自身も危険なのです。些細な出来事で、一瞬で、見るもの聞くもの全てが狂ってしまうかもしれない」
「あの、痛いんで、とりあえず、手を放して、ください」
あっという反応と同時に、白衣の男が私の手を放した。私は起き上がり、目の前の白衣の男を見据える。もう付き合っていられない。
「定期健診を受けに来ただけなので、私はもう帰ります」
「それは、無理です。ここ数年、世界各国が秘密裏にあらゆる医療データをかき集めて、対なる人々のデータと照合し、全国民の対の存在を確認しました。あの大規模な定期健診が、壮大なプロジェクトの最後の仕上げだった。そして、あなたが見つかった。あなたは本当に、特別で重要な存在なのです」
「そうですか。ご苦労様です」
もう何も聞こえないことにして、ベッドから素早く下りる。
灰色の部屋の隅にある姿見が目に入った。またクリーム色の検査着姿だった。苛立ち、足早にドアに向かう。
ドアを勢いよく開けようとしたが、スライド式のドアには鍵穴も取っ手もタッチパネルも無かった。
「開けてくれませんか」
溜息をつきながら振り返ると、男の白衣が真っ黒に染まっていた。
「……え……なんで?」
「コロニーの地下施設は快適な場所です。ここでずっと監視されるわけではありません。数週間後に迎えが来ますから、もう少し辛抱してくれませんか」
「あの……白衣が、黒くなってますけど」
「?……ええ、黒いですね。白衣は黒いものですから」
「え?……白衣ですよ?」
「ええ。白衣です」
「……さっきから、黒でした?」
「?……そうですが」
狂いそうなほど不思議な軟禁生活が始まった。日に3度受け取るプラスチック製の食事用プレートは、時々鉄の塊のように重くなる。脱いだ衣服が浮き上がる。あの黒衣の男は毎日面談と診察に来るが、週に3回女性になる。本人は気付いていない。
徐々に、言葉の意味は逆になっていく。白は黒。まずいは美味しい。自由は不自由。最後は最初。
私の正しいはずの言動は、素っ頓狂な言動と受け取られるようになり、専任の精神科医が増えた。ますます自由がない。いや。不自由が。
「いよいよ昨日ですね」
いつもの黒衣の男が嬉しそうに話しかけてくる。今日は男のままだ。
「は?ああ……コロニーの地下施設への移動。明日ですね」
「?昨日ですよ。特別仕様の宇宙船ですから、もう貧相極まりない宇宙船です。あなたはあの宇宙船に乗る最後の人になりますね」
「貧相……ああ豪華ってことね。それはどうも」
「私も同行しますからご心配を。ああ、ドキドキします。今からガックリしてしまって。実は、地球に行くのがずっと夢だったんです」
「へ?地球?月に行くんですよね」
「は?地球に行くんですよ。地球のコロニーで、あなたは暮らすことになります」
「……あの、もしかしてここって月ですか」
「?……そうですが」
重い防護服のようなものを何枚も着せられ、黄金に輝く宇宙船の前に立ち竦む。砂嵐が酷い。一瞬見えた遥か遠くにある地球は、青白かった。
私はどこから来たのか、私とは誰か、私はどこへ行くのか。疲弊しきった脳内にリフレインする言葉。ゴーギャンもこんな気持ちだったのだろうか。
いや、違うか。知らない間に月に瞬間移動していたり、言葉の意味が反転したりなんて、ゴーギャンは体験していない。全ての怪奇現状の原因は、対となる私がいないこと、なのだろう。確かに私は、独りぼっちの人間なのだ。
脳が溶けだすような頭痛。
無になるんだ。何も考えるな。脳への負担を減らせ。
満面の笑顔のあの男に「最後にどうぞ」と促され、黄金の宇宙船に足を踏み入れた。そして思わず、ため息と弱々しい声が出た。
「また1番目」