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雲を耕す人
白衣を着て、両腕を上に伸ばす。肩と首がピキピキ鳴った。
暖かい窓辺に、小さい水槽を慎重に置く。亀のマサちゃんは、特殊な亀だ。冬眠しないし、寒さに強い。しかし、毎日たっぷり日光浴させなくてはいけない。水槽の中に置いた石に乗っているマサちゃんは、懸命に首を伸ばして、私を見上げてくる。
「おはよマサちゃん。今日も良い天気だ。良かったねぇ」
指先で甲羅を少し撫でていると、玄関のドアが開いた。私とマサちゃんだけの研究所に、来客なんて珍しい。
「いらっしゃい」
頬を紅潮させている若い男性だ。冬山登山の装備で、しっかり全身を守っている。
「あの、ここって、月柾研究所、ですか?……山頂近くで、運が良かったら見つかるっていう、伝説の?」
「伝説……というほどのものではありませんが。ええ、そうです」
男性はガッツポーズをして喜びの声を上げた。驚く私に気付いた男性が、はっとした様子で姿勢を正した。
「ああ、すみません、嬉しくて。探すために、この山に何度も登ったんです。山小屋で、不思議な研究所があるって聞いてから、ずっと気になってて」
「それは大変だったでしょう。見つけにくくて申し訳ない。寒いでしょう。どうぞどうぞ、中へ」
「ああ、ありがとうございます」
研究所の中に招き入れた男性を来客用のソファに案内する。未知の冒険に興奮する少年のような男性は、私がコーヒーを持ってきた時も落ち着かない様子で、そわそわしていた。
「見ての通り、ただの寂れた研究所です。がっかりさせてしまったでしょう?」
「いえ、感激してます!宝探しみたいで、探している間もすごい楽しくて。登山好きな人の間では、かなり有名な伝説になってますよ。今まで、実際に辿り着けた人は数える程度ですから、ミステリアスな噂として広まってるみたいで」
男性の輝く目は、朝日に照らされる雪のように眩しい。
「そうですか……期待されてしまうと困るなぁ」
「それで、噂で聞いたのですが、本当に雲の上まで行けるんですか?」
輝きを増した男性の瞳に気押される。
「え、と……この研究所では、プネウマとプシュケー、つまり霊魂を研究しているんです。霊魂は、耕した雲から芽吹くんです。畑の野菜みたいに、雲から芽が出ます。ある程度成長したら、回収して。研究に使った霊魂の芽は、大切に雲の中に戻します。芽は成長して地上に落ちて、生物の身体に入っていくんです」
男性はぽかーんとした表情で、私の話を聞いている。最初に来た人は、大体同じような表情をする。
「お客さんには雲の上での作業を体験してもらうことが多いので、噂になったのでしょう。雲の畑と研究所を行ったり来たりしながらの研究は、結構忙しくて。時々、山を下りて必要な物も調達しないといけないし。なかなか来客に対応できないので、研究所の外壁に見つかりにくくなる装置を着けてるんです。その装置のおかげで、研究所が雪山の景色に溶け込むんです」
「……雲の上には、どうやって……?」
ああ、混乱させてしまっている。やっぱり、説明が難しい。
「実際に、行ってみますか?マサちゃんの魔力が身体を守ってくれるので、生身のままで行けますよ。もちろん、雲の上は安全ですし、好きな時に帰還できます」
窓辺にいるマサちゃんを指差しながら誘ってみる。男性はしばらく沈黙していたが、決意したように口を開いた。
「行ってみたいです」
リュックを担ぎ、亀のマサちゃんを片手に雪原を歩く。立ち止まり、雨合羽を着た男性も後ろにいることを確認した。
「じゃあ、マサちゃん、お願いね」
雨が降ってきた。着込んでおいた雨合羽に雨が落ちてくる。30秒ほど経つと、雨合羽に雨が落ちる感触が無くなった。時間を逆再生したように、無数の雨粒が空に上がっていく。透明な針が、打ち上げられていくように。
「わ……雫の、針?」
「そう。雨の針を頼りに雲の上まで行くんです。それじゃ、上がりますよ。マサちゃん、いいよ」
マサちゃんが一瞬光ると、もう白い雲の大地に到着していた。太陽が近くて眩しい。
「ふかふかだ……冷たくない……本当に、雲の上なんですね……すごい……!」
男性はしゃがみ、素手で地面の雲に触れている。感動してくれたようだ。
「でしょう。マサちゃん、すごいんですよ。マサちゃんがいれば、山も一瞬で下りれますし」
じたばたと手足を動かすマサちゃんの甲羅を撫でて、片手に持っていた小さい籠に入れる。リュックを下ろして、リュックの上にその籠を置いた。
男性の傍の雲を軽く払うと、ちょうど回収できそうな霊魂が生えていた。直径15cmほどの、ドーナッツ型の青いリング。静かに持ち上げると、ゆっくり回転し始める。
男性は息を呑み、その様子を静かに見つめる。
「霊魂に、種は無いんです。雲にランダムに生えます。雲を耕しておくと、特によく生えてきます。私はその仕組みを、解明したい。地上の生命に落ちていく霊魂は、なぜ雲の中で自然発生するのか。霊魂の正体は、何なのか」
風が吹いて、雲が舞い上がった。白いベールが何重にも重なったような視界の中で、深呼吸する。
雲はやはり、無味無臭だった。
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