言葉の遣い方
暑い日が続きますね。
パリも、しばらく33℃から38℃の日々が続くそうで、
なんせ家庭にエアコンがありませんから、まあ過酷なんですが、
夏って暑いもんだ。
そう思ったら、北国にとっての夏は、貴重なお天道様が浴びれる時期なので、
有り難く季節を愛でようと思います。
さて、よく言葉の遣い方で気の持ちようや、引き寄せる運気なんかも変わる、要は言葉には言霊やエネルギーがあるといったようなことを聞きますよね。
気の持ちよう、というのを語っていた方がいて、お話自体には納得のいくものも多く、あれこれ難しくせずシンプルに説明していたので、興味深かったし、面白くもありました。
ところが、その中で「他人の噂話とか、どうでも良くない?」といった言い回しがあり、この発言の本質自体に反論はなく、確かにそうだよね、と思ったのですが、この時に私は、どうやらこの「どうでも良い」という言葉や、その気持ちを表す態度が好きではないことに気が付きました。
普段、かなりの頻度で聞く言葉でもありますが、その都度なんとなーく、モヤッと感を感じていたことがあったんですが、とりわけ気にしないようにしていたんです。
言霊になり、良いものや波動の高いものを引き寄せるとか、精神レベルをこういった噂話や愚痴に費やさないことによって避けられる波動の低さなんかは、私もすごく理解できます。
受け止めたくない、取り込みたくないエネルギーや波動を、興味を示さないことでシャットアウトすることは、ある意味有効とも思えます。
ただね、なんかこの「どうでも良い」という言葉、およびにその精神性っていうのかな、そういうもの自体になんだかネガティビティを感じる気がするのです。
自分でも思い返すと、「どうでも良い」と思った出来事や人物に対して、尊敬や尊重の念などなく、それどころか、ちょっと低俗なもののイメージや、いわば見下した感覚が根底にあると思ったんです。
関心がない、という意味合いでこの「どうでも良い」を使うのだと思うんですが、「興味なーい、どーでもいー」って言っている時に、果たして純粋に低い波動をシャットアウトしているのかな、だとしたらこう乱暴に(と敢えてそう表現するなら)言う必要があるのかな、と思ったんです。
まあ、“低い波動”とか言っているので、その時点で既に上下、優劣の価値基準が存在します。
もちろん、美しい言葉や明るい話より、愚痴や噂話がネガティブなことというのは分かります。そこじゃないんです。
この、「どうでも良い」「どうでも良くない?」という発言を、
「どうと思う必要がない」とか「あれこれ思うことがない」「特に何も思わない」
と言ってみると、同じ意味合いでも、ちょっと聞こえが違くないですか。(もっと表現はあるとは思いますが)
“関心がない”、“興味がない”という視点からある物事や出来事を排除することは、人としてありがちかと思うけれど、興味がないからと乱暴な言い回しで排除する時点で、どこか優劣や善悪の思想が発生していると思うので、せっかくの引き寄せや波動のお話に対して、その言葉はあまり高波動な言霊は持っていないのでは、と思いました。
面と向かって、「どーでも良いし」と言われて不快に思わない人がどれくらいいるでしょうか。
あからさまに、「へえーだから?」風な態度で接せられたら、人によっては傷つきます。
取り込みたくないエネルギーであれば、自分を守るためにできることは、相手を不愉快にさせる言葉を投げかけるのではなく、自分自身には必要ではありません、という事を、ただ態度や言葉で“ニュートラルに”明確にすれば良いと思うのです。
優劣の精神や善悪の価値観があると、場合によって相手へリスペクトを持てなくなります。
ここで言うニュートラルは、優劣や善し悪しを定めないで、自分の意思を表現することとして言いました。
この「どうでも良い」という言葉になんにも感じない人もいっぱいいるかも知れませんが、私としては、この言葉単体に対する私自身の中のモヤッと感の正体が判明した気がしたので、ここに書いてみました。