【猫を棄てて、よかった】
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読書が趣味で、
今までにたくさんの本を読んできました。
前は、読みたい本を買っていたので、
どんどん家の中に溜まっていき、
場所を取るようになってきたので、
引越しを機に、ほとんどを処分しました。
手元に残ったのは、何度も読みたい、本当に好きな本だけです。
村上春樹の本は、持っていません。
私が高校生の頃だったか、
彼の「ノルウェイの森」というのが、
とても流行りました。
持ってると、「モテる」とまで言われていたと思います。
へそ曲がりな私は、「ノルウェイの森」だけは読むまい!と、
心に決めました。
「ヒットしている物」が嫌い・・
正確には、「ヒットしている物に、すぐ飛びつくような自分」が、
嫌いという「こじらせ女子」でした。
「アンチ、ヒット作好き」な自分を偏愛する、
なんとも、カッコ悪い若者でした。
その後、結婚して夫の転勤で大阪に引越し、
近所の図書館で開かれる「読書サークル」に入りました。
みんなが、それぞれに「お薦め」の本を紹介するという、
本好きにはたまらないサークルでした。
本の作者に対して、「食わず嫌い」傾向の強い私は、
そのサークルで紹介された本を読むようになりました。
そのサークルに入ったおかげで、
本の偏食もかなりなくなりました。
「海辺のカフカ」が、
初めて読んだ村上春樹の本です。
サークルメンバーの殆どが読んでいて、盛り上がる話についていけず、
黙って聞いていると、
みんなが、「絶対読むべき!」と推してきました。
流石に、どんな作品なのか気になりました。
天岩戸にこもった天照が、
外で始まった宴会に興味を惹かれて出てきたのと同じですね。
「ああ〜、ハマる人の気持ち、わかるかも・・・」
というのが、初対面の感想。
それから、あの「ノルウェイの森」を読みました。
ヤバイ、面白い。素敵すぎる。切なすぎる。
登場人物が、地に足ついてないふわふわした感じです。
小説の中で、登場人物の服のブランドや、食べ物の名前や、
飲み物、タバコの銘柄、作曲家、車の種類・・・
どれ一つ知らない。
なんかオシャレ感が、鼻につく小説だけど、
登場人物達は、誰も彼も苦しんでいる。
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私が、今までに読んだ村上春樹の本は、
「海辺のカフカ」「ノルウェイの森」「1Q84」「風の声を聞け」
「アンダーグラウンド」「アフターダーク」「スプートニクの恋人」
「女のいない男たち」「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」
「騎士団長殺し〜顕われるイデア編〜」あたりです。
いつも図書館で借りて読んでいますが、
借りるまでは、選ぶ手が迷っています。
「借りようかな〜、どうしょうかな〜。」と。
なぜ、迷うのかは、自分でも分かっています。
めんどくさいから。
村上春樹の作品の中に入っていくには、
読むために「筋トレされた鋼のような読む力」が必要となってくるから。
状況や、内容を理解すればするほど、
登場人物の突飛な設定や、登場の仕方が、
何のメタファーなのか、いちいち自分の考えを持たないと、
話が面白くないと言う、
「親切ではない哲学の授業」を受けているような感覚になります。
ちなみに、図書館で割と近くにいる「東野圭吾」は、
躊躇いなく借りれる。
頭が疲れない、軽いジョギングくらいの感覚で読めるから。
疲れるんです、村上春樹は。
だけど、勇気を出して借りて読むと、
もう、止まりません。
そして、図書館に返す日には、
また、必ず読み返そうと心に誓う。
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私なりに、「村上春樹」を読み解く「キーワード」として、
自分を納得させる方法があります。
それは「残酷なお伽話」という事。
お伽話のお姫様は、トイレにも行かないし食べても太らないし、
素敵な服を着て、王子様と出会って結婚する。
だけど、お伽話の成り立ちは、
そもそも血生臭い昔の逸話や、親殺し子殺し、
貴種遺留譚、人身御供、
魔女狩り、疫病禍などのお話から、
灰汁を取り除いたもの。
本来は、後の世まで伝承すべき教訓や事象を、
そのままでは刺激がきついからマイルドにしたもの。
『ハーメルンの笛吹男』は、その典型的な物語。
美しい舞台、美しい登場人物達は、
その繊細な刺繍やレースの服の下に、
生々しい傷跡や、血痕が付いている。
流れた血で、染めたドレスを着ている。
常に禍々しい「なにか」に怯え、苦しんでいます。
できれば、世界の美しさだけを見て生きていたいと、
思っていても、
「美しさ」しか存在しない世界では、
そもそも「美しさ」は存在しないと、
言われているような作品達。
真っ白いキャンバスに白い絵具を塗っても変わらないのと同じ。
読み進むのが、苦しいのは当たり前ですね。
「残酷なお伽話」と言うキーワードを念頭におくと、
私は、割と読みやすくなりました。
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「猫を棄てる」と言うこの本。
長年確執のあった父との思い出の中で、
一番心に残っている「2人で猫を棄てに行く場面」を、
切り口にして、
父の人となりを振り返っています。
京都にある「安養寺」と言うお寺の次男として生まれた父。
6人兄弟(女の子はいません)の次男という事で、
小さい頃は、一旦奈良にあるお寺に修行に出されます。
おそらくは、そこの養子になるという含みを持って、
行かされたようでした。
しかし、すぐにまた京都に戻ってきた。
父は、その経緯については詳しく話してくれなかったけれど、
その後また、いままで通りに家で暮らし始めても、
その時に「一度、捨てられた。」という心の傷は、
消えなかったようだと、書かれています。
小さい頃「捨てられた」というトラウマを持つ父。
傷を人知れず抱えた、迷子のような心が、
理不尽で凄惨な戦争の中で、
罪もない命を、抹殺する現場に立ち合わなければならなかった。
平和な今の時代の空気を吸っている私たちには、
想像もつかない閉塞感と、破壊的な暴力に晒された、
当時の人々の心は、その後の日本の復興と発展を、
どんな思いで、見ていたんでしょう。
戦争が終わっても、アイデンティティの形成時期に、
大きな喪失をした彼は、
息子の中に、もう一度失われた自己を、再生したかったのかもしれない。
頭のいい自分の素質を受け継ぎ、
幸せで恵まれた時代だからこそ、見れる夢を叶えて欲しいと、
願っていた。
しかし、当の息子は学業にあまり身を入れず、
その上、学校の体制的なものに嫌気がさしていた。
学校というシステムは、知識を身につけて社会に役立つ人間に育てるという性質上、父権制度に似た働きがあると思います。
知識を詰め込み、社会性、群の中での調和と序列を重んじる所は、
ちょうど軍隊に似ています。
父親が、その青春を過ごした戦争の中で、ほとほと嫌気がさしたであろう組織と同じ仕組みの学校で、
息子に優秀であって欲しいと願う様は、幼い自分を棄てた父への
愛と憎悪の相反する感情の発露であると、私は受けとりました。
村上春樹の小説の中で、常に「テーマ」となっているのは、
「父性的な存在との確執」、エディプスコンプレックスです。
父性の権化のような学校の体制に、彼が反発をするのは、
自然な流れだったと思います。
父に愛されたいと願う心と、父を殺したいと願う心。
扱いにくい凶器のようなそれを、持て余している。
息子が、自分とは違う性質の持ち主で、
自分が望むような生き方をしないであろう事が、顕著になりだすと、
今度は息子に捨てられたような気持ちがしたのかもしれない。
人生で2回目の喪失体験。
この本の最初に書かれている、タイトルにもなった「猫を棄てる」エピソードは、
遠くに捨ててきたはずの猫が、
親子よりも先に家に帰ってきていて、
びっくりしつつも、父はほっとしているようだったと、
書かれています。
毒気を抜かれた父は、その後その猫を飼い続けました。
容易にコントロールできると思っていた「命」が、
予想もつかないどんでん返しをしてきた事で、
子供の頃の自分や、
戦争で死んでいった人たちへの、鎮魂歌となって、
心に響いたんじゃないでしょうか。
私は、そう受けとりました。
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自分と同じようになって欲しかった父と、
それに抗い、自分のやり方で生きた息子。
親子の葛藤は残りつつも、
「あの日、猫を棄てに行って良かった。」と言う思いは、
同じだったんじゃないかと、感じました。
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