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いただきます、を言うだけにしない。

海外ドラマのワンシーン。食卓を囲む家族6人、皆が胸の前で手を組み、食事の前に祈りをささげる。賑やかにテーブルに駆け付けた子供たちも、祈りの時には静かに目を閉じている。タイトルも内容も全く覚えていないけれど、このシーンだけはなぜかずっと覚えている。

すごく、憧れた。

我が家は宗教とは無縁なタイプ。初詣やお盆のお墓参りなんかはあったけれど、季節行事であって、信仰心というのは特になかった。


食べるときは「いただきます」と言うし、食べ終わったら「ごちそうさまでした」と言う。でも、そこにあの家族のような祈りはない。言ってから食べるものだと教えられたから、習慣で言葉を発しているだけ。


小さい頃は、挨拶くらいにしか思っていなかった。これから食べますよーの宣言みたいな。選手宣誓。
「わたしはー!これからご飯をー!美味しくいただきますー!」

ごちそうさまも同じ。「食べ終わったよ。もうテレビ見るよ。」みたいな。それくらいにしか思っていなかった。


少し大きくなると、感謝の言葉だと教えられた。作ってくれたお母さんや、レストランの料理人、野菜を育ててくれた農家さん、魚や牛…意味はわかった。けれどもやっぱり、掛け声でしかなかった。


数年ほど前になるけれど、江戸時代の国学者である本居宣長が詠んだ歌を知った。

たなつもの 百の木草も 天照す 日の大神の 恵みえてこそ <いただきます>
(たなつもの もものきぐさも あまてらす ひのおおかみの めぐみえてこそ)

朝宵に 物くふごとに 豊受の 神の恵みを 思へ世の人 <ごちそうさま>
(あさよいに ものくうごとに とようけの かみのめぐみを おもえよのひと)

いずれも、本居宣長『玉鉾百首』より

「いただきます」の歌は、五穀やすべての木草は天照大御神(太陽神)の恵みあってこそですよ、ありがたくいただきます、という意味。

「ごちそうさま」の歌は、食事の際には豊受大御神(衣食住・産業の神)に感謝しましょう、と、そんな意味だ。


この歌を知ったとき、海外ドラマのあのワンシーンがぱっと出てきた。
あぁ、日本にもあったんだ、祈りの言葉が。

しばらくは紙に書いて、食事の度に詠みあげていた。
今ではカンペなしでも言えるようになった。手を合わせて、目を閉じて、心の中で和歌を詠んでから「いただきます」と言うようにしている。


「いただきます!」のように一語では終わらないから、すぐにむしゃむしゃ食べ始めることができない。落ち着いて、食べることに集中するための、立ち止まる時間となる。

何より、しっかり感謝の気持ちを持てるようになった。天照大御神は太陽神。作物が実ったこと、さらにはその実りを与えてくれた太陽にまで想いを馳せる。


野菜はスーパーに陳列された状態しか知らないし、加工食品に至っては何が入っているのかよくわからない。でも当然そこにある。そんな風に育ってきたから、自然に対する感度も知識も全然ない。

けれど、この和歌を知ってから、こうして食事をいただけるのは当然なんかじゃなくて、とっても有難いことなんだなぁと思うようになった。決して自分の力だけでは生きていけない。多くの人の手と、自然の恵みとに生かされている。


今日も平和に一日を終えられることに感謝だなぁ。


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