(Intermediate) CROSS of my dual conscious
以前、私はフランスの哲学を研究していた。そのなかで出会ったのが、フランスの哲学のなかで知られている、ジル・ドゥルーズという人である。彼は、個体化論という個の生成に関する議論をしていた。そのなかで、ドゥルーズは、〈私〉というものが構成されていく(時にひび割れながら)していく仕方について考察していた(例えば、『差異と反復』の第三章)。
そのなかの印象的なパッセージだけ今引用したい。
さて、私は自分のことを「男性」だと性自認を持つか(その場合、身体の性には合致しています)、もしくは「女性」だと性自認を持つかによって、言葉の組織化のされ方が異なっているという現象について考えていたいと思っています。
私はこれまで、他の人の言葉に割りかし頼ってきたのですが、自分の言葉のみで日記を書くこともできるのではないかと思い、こうして書いています。
私は例えば、自分の中で自分をどう認識するかによって言葉の組織のされ方が異なることに気づいています。私自身その組織のされ方について、内的な二元性(Duality)の問題だと思っています。
インターネットをする時、自分の身体の性ではない性の人だと仮に設定して、他のユーザーと交流すると、問題が生じてしまいます。
例えば、それは『電子メディア時代の多重人格』のなかで、言及されている例でもあります。サンフォード・レヴィンというニューヨークの男性の精神科医が、ジュリー・グラハムというオンラインの女性の精神科医としてアカウントを開いて、周囲の人々と交流し始めたのです。(日本語版 100-117頁)。
その交流は最後はとんでもないことになってしまいます。
こうしたインターネットとジェンダーが絡む問題については、確かに私は自覚的でならなくてはと思います。
私自身はこのようなインターネットとジェンダーの問題について、理解したうえで、自分自身の問題について考えつつも、もう一度「男性の役割」をしっかりと引き受けることができるようになることが良いのかと思うことがあります。
自分を男性として書くか、女性として書くかで文章は変わるのだろうかと思います。
それは〈私〉とされる領域の変換だと思います。
〈私〉が女性化されると、例えば、次のように言葉は変わります。
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私はそうした仕方で自分自身のなかの性別をおそらく無意識に変換することもできるけれど、私自身は完全に身体は男性な人間だし(良くてジェンダーレス)ということで、私自身は誠実に人と接する時は、男性として意識も男性として接した方が良いのだろうかと思うことがあります。
こうして「男性の意識」も「女性の意識」も経験できるのは、私自身がXジェンダーだからなのでしょう。たぶんどちらの要素も持っています。
どちらの意識の性によっても言葉を書くことはできるし、人と接することはできます。
そこで生まれてくる問いとしては、性差とは何かという問題です。性差は何のために存在しているのか、私自身、話し言葉でつまり音声入力で書くこともあったのですが、確かに誠実に書くのであれば、音声には頼らずに書いた方が良いのではないかと思います。
私自身こうしたところはありますが、性差の問題、それは意識で経験される性差の問題について自分の問題関心にしても良いのではないかと思うことがありました。
そうした性差の問題を考えつつ、私自身は「男性の意識」を使っても人と接することができるし、「女性の意識」を使っても人と接することができるという状況になっているのではないかと思います。
そこには何らかの解離の問題があるのかもしれませんが、私自身は男性性の問題、つまり男性は何をすることができるのか、そして、男性というセクシュアリティを持つがゆえにできることについて、「有害ではない男性性」について思考したいと思いました。
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ここからまた「男性の意識」を中心に据えます。
私自身こうした仕方で考えていることは、自分にとって意味のあることだとは思っています。
実際に自分の意識の中に複数性があることはそれは病理ではなくてもそれは存在するということについて私は理解しなければならないと思っています。
私はこの問題については誠実に回答していきたいと思います。
私は長い時間かけて自分を診てくれた医師が自分のことを「解離性障害」「アイデンティティ障害」「統合失調系」と診断したことについて、しっかりと自覚して、ただ、そこからでは何をもって自分を変えることができるのかという問題についてはかなり慎重に考察していきたいと思います。
p.s. 最近、『テキストコミュニケーション力の基本』という本を買いました。テキストで人に対して好感をもたせる仕方で言葉を書くことができる方法について学びたいと思っています。
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