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解離性障害、統合失調系で通院しています。それぞれのnoteの内容は独立していますが、連…

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解離性障害、統合失調系で通院しています。それぞれのnoteの内容は独立していますが、連関を作ろうと努力しています。妄想が混じることがありますが、ご承知ください。複数性という実存を抱えています。なお、統合失調症(と解離性障害)と今は診断されています。

最近の記事

個の力を再びこの時代において認識すること:そして、私の主人格の移行の問題について

前回の記事から少し時間が経ってしまいました。その後、自分という存在において解離という問題が現れることはありましたが、しかし、そもそも自分の議論がここで行われている、その内容については、現在、自分が研究をしていることとはまた異なった当事者的な研究となることを意図しなければならないのではないかと思いました。 私は確かに壊れた心を持っているという現状があります。そのなかで、自分の精神的な苦痛があり、さらにはその苦痛によって、自分だけでなく周りの人も心配させてしまうということがありま

    • 善と悪とは何なのだろう、そしてそれと解離の問題(主人格からの視点)

      最近僕は心のなかで色々な人格があることに気づいていた。そしてその人格のなかで自分の存在というのはどのようなものかということは考えていた。これは分人主義的に捉えられることではないか。 そして、この分人主義的に捉えられるなかで、結局のところ、適切な仕方でその都度、自己を分人的に自己呈示していくこと、これはアーヴィング・ゴフマンの言うところの「表局域」における自己呈示ということになるだろう。 いわば、自分を盛るという仕方でその都度、自己呈示していくのだが、そこでやはり私たちは仮面を

      • 仮面をつけるということ

        私たちは何らかの仕方で仮面をつけてコミュニケーションをすることがある。実際に、私の知っている哲学者のなかでジル・ドゥルーズという人は、役者という存在について言及することで、私たちが役を演じている時にはどのような状態にあるのかということについて思考を促している。 私たちはこのような状態に関する思考をすることができる。実際に自分は何らかの役割を演じる時は、このように個体と人格という2つのカテゴリーから独立したような特異性を表現するそうした役割に対して自らを開くのである。それは「

        • 心のなかを言葉で伝えるーー〈現実界〉の到来を避けつつ

          話しながら書くということについては、様々な事情からやめたいと思います。自分自身で意識を集中させて(または時折小声で書いている文章をなぞりながら)書いていきたいと思います。 私のブログは私の病理に関する記述が中心でしたが、自分自身、このところ良いニュースもあり、少し精神的に落ち着くことができました。 自分自身、解離の問題について書いてきたけれど、同時に問題視していたのは、統合失調症系の症状も生じていたことで、要するにジャック・ラカンが言うところの神経症の範囲に自分が収まって

        個の力を再びこの時代において認識すること:そして、私の主人格の移行の問題について

          私はカウンセラーになぜ画面に向かい声を発して話しながら書いてはいけないと言われていたのか、それは私の解離と離人の症状があるからだと思います。人は誰しもがペルソナをつけて話している。そのペルソナを無化してしまうからだと思います。その点で実験的な前回の記事についてはすみませんでした。

          私はカウンセラーになぜ画面に向かい声を発して話しながら書いてはいけないと言われていたのか、それは私の解離と離人の症状があるからだと思います。人は誰しもがペルソナをつけて話している。そのペルソナを無化してしまうからだと思います。その点で実験的な前回の記事についてはすみませんでした。

          私に対する精神的注釈

          自分なりに自分の今の症状について考察することが出てきたので書いていきたいと思います。 自分は「眼差しとしての私」と「存在者としての私」について柴山雅俊さんの議論に対して参照を行ったけれども、そこで大事なのはその2つは交代しうるということだった。 私はその両方が交代しうるということを念頭に置いて、どちらにしても「存在者」としての立場からベタに言葉を書いていくべきなのかなと思った(つまり、自分がベタに女性人格である時、「存在者としての私」として女性である時は女性の言葉で、ベタに

          私に対する精神的注釈

          世界没落妄想を持ったことから

          妄想を持つということは体験としてどのようなことなのか。 私は妄想を持って、それで自分のことがすべて自分の原因でこの世界が破滅したという思いを持ってしまった。 でも、そんなことはない。 本当に妄想におけるように世界が自分のせいで崩壊したならすごいことだが、それはないだろう。 例えば、村上靖彦の『傷の哲学、レヴィナス』のなかでは次のように書かれている。 私は実はインターネットで「極大のオーダー」と「極小のオーダー」が(これに関しては宇佐美達朗の『ドゥルーズの21世紀』に所収の次

          世界没落妄想を持ったことから

          心の問題の再考(2)ーー「ありのままの私」と「外」・「内」の感覚

          人間の思考において、「表の領域」と「裏の領域」を作ることによって見えてくるものはあるのかもしれない。だけど、自己一致することが求められる職業であるカウンセラーでは例えば、おそらく「表」と「裏」を作ってはいけないのではないだろうか。 私自身、「表の自分」と「裏の自分」というのを作ってしまいがちになってしまうけれども、理想は「ありのままの私」で24時間動き、24時間できれば応答可能な状態になることが望ましいとは思っている。 安冨歩さんの『ありのままの私』という本を読んだ。 『

          心の問題の再考(2)ーー「ありのままの私」と「外」・「内」の感覚

          心の問題の再考(1)ーー普遍主義について

          簡単に何かを言うことはできるのだろうか。 私自身は確かに背方空間に意識があるように感じている。 それはそうだ。その背方空間の意識の存在によって自分の状態は変わりうる。 私は男性としても女性としても振る舞えるという話はしたけれど、職場では男性の服をしている。メイクもしても眉メイクとコンシーラーくらいだ。 そのなかで、自分の状態を改善するために努力することは多いのだけど、 どれだけ改善しようとしても上手くいかない時がある。 特異性(singularity)の問題について最近読ん

          心の問題の再考(1)ーー普遍主義について

          手紙にはならないが紙の餞別

          私は自分の文章を書く時にすごく苦労している。私は最近読んだ本のなかで、日常会話能力と思考言語能力が区別されているのを知った(児玉克順 『世界でいちばんやさしい 教養の教科書 〔人文・社会の教養〕』 Gakken、2023)。 「こんにちは、いい天気だね!!」と呼びかけるのが日常会話能力(あるいは本にある言葉をそのまま引くと「上記のような語彙を使って会話する能力」(同書、86頁)で、「人の普遍的な尊厳を守る根源的な在り様を………………」というように頭のなかで考える言葉が思考言

          手紙にはならないが紙の餞別

          言葉に関する感触、それからサイコティック・プロセス、また読んだ自己啓発の本について

          自分が文章を書くということはどれほど自明なことなのでしょうか。 以前は、自分は文章を書くことに苦労などしていなかったと思います。 文章を書くことに苦労することが多くなったのは、精神疾患の症状が出てきてからだと思っています。 精神疾患の症状についても、次の手帳の更新では、精神障害者保健福祉手帳2級になるかもしれないです。診断名が「統合失調症」と「解離性障害」です。 それに加えて、その診断書には、「離人症」「自我障害」という記載もありました。 その点については、読む人に自分のアイ

          言葉に関する感触、それからサイコティック・プロセス、また読んだ自己啓発の本について

          私は「多重人格のマネジメント」について本で読み知ったのだが、「表の人格」「抑圧人格」「深層人格」というものがあること、またいわゆる「静かな観察者としての自分」があることの重要性について書いていて、参考になった。せっかくだから自分の体質も良く活用していきたいものだ。続きはコメント欄

          私は「多重人格のマネジメント」について本で読み知ったのだが、「表の人格」「抑圧人格」「深層人格」というものがあること、またいわゆる「静かな観察者としての自分」があることの重要性について書いていて、参考になった。せっかくだから自分の体質も良く活用していきたいものだ。続きはコメント欄

          書いていることを最高速ですると

          書くという行為について、前回のnoteについては確かに考えてから書いていたのですが、それだと私自身、頭の中で考えた文章を書くということになってしまい、自然さが失われてしまうのではないかという気がしたので、私自身今回のnoteでは自然に筆を動かすことにします(実際にはタイピングですが)。前回のnoteについては次に挙げられます。 私はこのところ、自分に関することで、昔の自分の行いについて反省することがかなりありました。 私なりに分析すると、私はネットというメディアを通して文章

          書いていることを最高速ですると

          役割演技かありのままの自分か

          ありのままの自分を出してしまっては不味いのではないか。ありのままの自分を出してしまっては不味いことを自分は知っている。自分は二重化された存在を生きているからだ。その二重化された言語を書き取るということを少ししてみたい。 私は自分のことを次のように書けます。ここで工夫して二重化された方の言葉を取り消し線で表現します。 私は次のように書く。私はある意味でトランスジェンダーだ。私はもっとしたいことがある。それは現世においてできることだ。ここで言葉を書くのをやめたいと思います。 少

          役割演技かありのままの自分か

          HYDEの歌っているPSYCHO LOVEを聴きながら、インターネットで言葉を書く練習をしていた。言葉を書くことには実際には練習が必要。ここからネットに言葉を書くことがある程度できるようになって、ある映画のように、曇っていても、言葉を発して人と意思疎通できるようになりたい。

          HYDEの歌っているPSYCHO LOVEを聴きながら、インターネットで言葉を書く練習をしていた。言葉を書くことには実際には練習が必要。ここからネットに言葉を書くことがある程度できるようになって、ある映画のように、曇っていても、言葉を発して人と意思疎通できるようになりたい。

          『わたしはあなたの涙になりたい』という小説を読んだ。私はあの小説を読んで色々思い返すことがある。私は結局は異性愛の要素を楽しんできたのだろうか。異性愛のコードを生きそのコードのなかでできることをしてきた。同性と異性が転換しうるからトランスの問題は私に適用した時難しいのだと思う。

          『わたしはあなたの涙になりたい』という小説を読んだ。私はあの小説を読んで色々思い返すことがある。私は結局は異性愛の要素を楽しんできたのだろうか。異性愛のコードを生きそのコードのなかでできることをしてきた。同性と異性が転換しうるからトランスの問題は私に適用した時難しいのだと思う。