見出し画像

在宅翻訳だけで生きるとどうなるか(2)

前編はこちら(https://note.mu/neixiangjueding/n/n14c2a2bf143a

 その弊害はまず、職業としている翻訳に生じます。普通の人ならばこの文章はこのように翻訳する、常識的な翻訳ならばこうだ、という感覚がなくなります。自分では極めて自然だと思っている訳文でも、他人から見れば何ともおかしな鼻持ちならない文体になっています。ニュースや契約書のような定型文の翻訳ならばさておき、文芸翻訳となると相当なハンディキャップを背負うことになります。訳者の奇人変人ぶりが訳文に反映されるならば作家も気の毒です。

 しかし考えてみればこれは訳文だけの問題ではありません。社会とのつながりをほぼ絶ち、人から見られることなく独善的に生きることから、さまざまな歪みが生じます。他人の目から自分を客観視することができなくなります。何が、どの程度が普通であるか分からなくなります。常識的な行動や言葉遣いができなくなります。概して、おかしな人間になります。物差しは自分だけです。

 仮にフォーマルな集まりに招待されたとしても、私はどのような格好をすればいいのか皆目検討がつきません。場に合わせることができません。そもそも、その場を想像することができません。自分が恥をかくだけならまだしも、子や配偶者に恥をかかせることが心配です。

 そのほか、人から見れば、私にはおかしな振る舞いがあるかもしれません。人前で上手に表情を作れません。笑えばいつも一人でパソコンに向かい浮かべている痛々しい笑みになることでしょう。人前で上手に話ができません。言葉のキャッチボールというものを知りません。人に関心を持てません。

 悪いことばかりのように見えますが、今後も社会から隔絶された所で生き続けるならば、これらは特に大きな問題でもありません。この一人の世界を極めたところに何があるか、内向的な性格を突き詰めるとどこにたどり着けるのか。私はそんな期待、希望を自分のハンドルネーム「内向絶頂」に込めています。「絶頂」とは中国語で通常、「聡明絶頂」とセットになって使われる前向きなイメージのある形容詞ですが、これを「内向」というネガティブなイメージのある言葉に使うこと、それすなわち私の人間宣言であります。

 「井の中の蛙大海を知らず」の後に付け加えられた「されど空の深さを知る」という言葉は、私の生きる励みになっています。最も美しい復讐は人知れず始まり、人知れず終わる。私は私の限られた可能性を試すため極端に生きるしかなさそうです。

 次はおそらく、そろばんと翻訳の相性に関する記事を書くと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?