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宮城准さんと、ゆっくりつながる。#03「プツン、となにかが切れた日」

(前回はこちら)

犬を抱いて「犬の散歩」をする母

そこからですかね。
母のごはんをつくりに、1日3回実家に通うようになりました。1人暮らしの自宅から実家まで、車で20分くらいなんです。

朝7時に朝ごはんをつくってあげて。
仕事に行って、昼も帰って昼ご飯をつくって。
また仕事に行き、夜も自宅に戻る前に実家に寄り、ご飯をつくる。

――(馬)そんな過酷な…1人暮らしながら1日3回も実家に戻る生活って。26歳という時期に、他に何もできないということですよね?

そうですね。その時は自分の中でバランスをとりたくて、1日の終わりに繁華街のスタバに行ってました。自分の時間はそれだけ。
火事場の馬鹿力というか、母が心配という気持ちだけで動いていました。この時はまだ食生活を整えれば症状も良くなると思っていたし。めかぶスープとか、野菜とかを多くしてとにかく健康に過ごしてもらうことを心がけているというかんじです。

犬の散歩も見てあげました。
母はリードがつけられなくなっていたから、リードを持って、犬を抱いて、散歩していたんですよね。

――(馬)犬は歩かず、自分だけ歩いている、という状態?

ええ、でもこれは僕がめちゃくちゃ怒ってできた完成形なんです。
その前はリードをせずに散歩していました。
「それは絶対ダメだよ」と、僕は母にきつく言い続けました。

あらゆることを理解、判断できなくなって、無意識に間違えたことをする。そうすると息子から叱られ、その意味も捉えきれない。
そんな状態にありつつ、母なりに精一杯僕に応えようとしてできた形が「抱いて散歩する」だったんです。

その姿すらも奇妙なんですけどね。
同じ道を、犬を抱いてぐるぐる歩いてる。

だいぶ症状が進行した時に、母が外からサザンカの花を持ち帰ってきたことがあります。沖縄のハイビスカスのような鮮やかなピンク色でした。僕は、それが公園に自然に咲いていたものか、他人のお家のお花かわからなかったけど、ちゃんと言わなきゃ。と思って(母を)強く叱責したんです。

それを家族ラインで告げると、こんどは姉が僕に怒りました。「言い過ぎじゃない?!」と。

でもそれは、社会的には許されないことだから。家族として伝える責務があると思ったから。僕なら後悔できるから。母を傷つけるのは僕だけでいい。そんな正義感でした。

母の気持ちを思うと、分かるんです。徘徊しながらどんどん自分のものではなくなっていく近所の風景の中で見つけた、一瞬でも“懐かしい”と思った、安心した花だから持って帰りたかったのかもしれないと。

――(馬)宮城さん、それも分かってたんだ。

ええ。それでも言わなきゃ。
辛辣な言葉を次々に突きつけました。
何も言い返せない母の、地面を見る表情でやっと止めることができました。
母は「あぁ、ごめんね」って。

僕は目を逸らすことしかできなかった。

息子の僕が、母を叱っている?
関係が逆になっているのが不思議でした。
"昔こうやって母に怒られたな"と変に冷静になる自分もいたり。

この頃を思い出すと、やっぱり後悔します。"懐かしかったんだね〜"って言ってあげれば良かった。悲しそうな母の表情がとても可哀想だった。

……そんなこんなで。
親父が仕事から帰ってくるまで母親の状態を見て、ご飯をつくってあげて、という生活を5か月くらい続けていました。

プツン、となにかが切れた日

ある日、6時半くらいに実家に戻った時に、母がいなかったんです。
探しに行こうと慌てて外へ出ると、例のごとく犬を抱いて帰ってきた母親を見つけました。真っ暗い道のむこうに、不安そうな顔をしていて。
でも僕を見つけて「おかえり!」と嬉しそうな表情になるのを見た時に、僕を僕として保っていた一線が、ふいに崩壊しました。

プツン、となにかが切れたかんじでした。

切れたまま、機械的に淡々と母のご飯を作って、親父にバトンタッチして、バイクで会社に戻りました。仕事を終えて自宅へ帰ろうと賑やかな商店街を歩いている時、突然嗚咽が止まらなくなるほど涙が溢れてきて。仕事帰りのサラリーマンやOLたちに怪訝そうな表情をされても、涙を止められませんでした
きっと僕の日常の景色に戻ったことで安心して、淡々としたふるまいができなくなったんだと思います。

お母さん。こんな真っ暗な世界で、わからなくなっていく景色の中で、ずっと1人だったよね。誰も助けてくれない、家族も気にかけてくれない、ずっと1人で戦っていた。ごめんね。

思えばここ数年、仕事中に「じゅん~~!!元気?ご飯食べてるの?今仕事中だよね?ごめんねぇ〜?」としばしば電話かけてきていた母。
元気な様子を装って、でも変化する自分が不安で、寂しかったんだよね。本当にごめんね。1人で怖かったよね。

母の暗黒な世界を、映像として強烈に体感した日でした。

――(𠮷)誰も悪くないからな。辛いよ、ね。

デイサービスに行こう

そこから、もう介護の手を借りようと思いました。
2019年の後半だったと思います。地域包括支援センターに行き、ケアマネさんを紹介してもらって、それから認知症特化型デイサービスに通い始めました。

ただ母は僕に施設に入れられると思ったみたいですね。「こわい…准に施設に入れられる」と。
僕は施設がどんなところだか分かっているので「いいところだよ」と言ったけれど、姉貴は「やっぱりそういうところに行かせるのは可哀そう」という立場。どうしてもぶつかりますね。

とりあえずいったん僕が悪者になり、「デイサービスに行こう」ということで押し切りました。通いで、送迎付きです。

――(𠮷)また自分の人生が始まったんだ。それがリアルだよね。

はい。結果的に母親にデイサービスに通ってもらうことで、僕が実家に行かなくてもよくなり、自由に時間を使えてやりたいこともできるようになりました。

息子の出ているファッション誌が、嬉しい


今、(リハビリの仕事と並行して)洋服の仕事をやっているんです。コロナで世間が止まっていた頃は、母が大変で力を注げなかったんですけど、ちゃんとやりたいと思っていて。

身体に似合うお洋服や、顔色に似合うお洋服をコーディネートする仕事なんです。色はどういう色がいいか、体型はこういうボディラインなのでこういう素材がいい、など提案します。

――(馬)銀座松屋で展覧会をやることもあるとか?(馬場は母経由で何となく聞いていた)

ええ、明日もやるんですよ。

――(馬)どうして洋服の仕事を始めたんですか?

病院で働いていた時、限られた方々だけに身体の構造に関わる仕事をしていることに対して、もどかしさを感じていました。この知識を若い世代に使えないかと思い、洋服関係に生かそうと考えました。

――(𠮷)それってゼロイチで生み出した仕事じゃない?すげー嬉しい、そういうの。

母との思い出の場所が、銀座なんですよね。映画を見たりとか、プランタン銀座やソニービルにも連れて行ってくれて。洋服が好きな自分は、いつか銀座で仕事をしたいなと思っていました。母が喜んでくれる気がして。

そういえば、母親の記憶がギリギリ定かだったときに雑誌のコラムを監修させてもらったことがありました。メンズファッション誌をおばちゃんが買って「ここに出たんだ」って何度も何度も言う。とても喜んでくれていたんです。

――(𠮷)宮城君がすごいのは、母親への愛情の中に、ちゃんと嫌な気持ちも包み込んでいるところ。ネガティブな自分も存在することも理解して、その感情とも向き合おうとしてるところだと思う。だから、優しいな、と思うんだよな。

(4話につづく)


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