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「アムリタ」を手に高野山へ②
高野山に入る前に一つ記事が終わってしまった。そもそも、私なんぞが難解な密教について解説することもできないし、グルメでもないので旅行情報を書いてもしょうがないと思っている。
私が書けるのは「私が感じた高野山」でしかない。
魂の積み重なりでできた、高野山
「この土地は魂が濃い」
そう感じたのは、実は高野山に入ってからではなく、なんば駅で南海電鉄に乗って、しばらくしてからのことだった。沿線には仁徳天皇陵に代表される古墳群があり、そもそも東京は魂の重なりが浅くて軽いことを知らされる。
初日の宿泊が高野山でも奥に位置する恵光院さんだったので、辿り着くなり、今も空海が瞑想して時を待っているという、奥の院に入った。
夥しい数のお墓、供養塔。それは主に、五輪の塔の形を成す。苔むしたそれらは1000年前からこの地に人の手が入っていないことを伝えている。
みんな、弘法大師の近くで死にたかった。小さな子どもを亡くした母も、荒々しい戦国武将も、高野山攻めをした信長でさえ。
生前はそれぞれに、与えられた使命をもってして、生きている。戦国武将だって決して、人を殺したかったわけじゃない。空海はそれもわかっている。
ここでは、すべて赦されて、魂として、静かに暮らしている。そんな感じ。
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体でしか理解することのできない、密教
最澄が空海に密教の経典を貸してほしいと頼んだ時、空海はそれを拒み、二人の関係は決裂した。
梵字の「あ」字を前に瞑想する阿字観。
世界のすべてを混沌のままに描き出した曼荼羅。
燃え盛る火のエネルギーを受け取る護摩。
仏典を音楽として響かせる声明。
なるほど、密教は決して本を読んで理解できる者ではない。おそらく、どれだけデジタル社会が発展して、すべてをYoutubeで見られるようになったとしても、それでは感じとれない。
それらはすべて、空気の循環であり、波動の交換、魂と魂との物質的なやりとり。
特に、恵光院さんの朝勤行の声明は素晴らしかった。二人の若い僧が助け合うように、美しい和音を奏で、まるでオペラを見ているような気持ちになった。
東京に戻って、日々のマントラの声が、自然と少し強くなったような気がする。
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ヒンドゥーな密教、空海による日本的アレンジ
インド哲学ブームな私。梵字はもちろんこれまでも見て知っていたけれど、サンスクリット語を日々目にする状態で高野山に乗り込むと、ああ、これはサンスクリット語の文字だ、としか思えない。
密教は、仏教にしては、インドっぽい。インドっぽすぎる。色彩も、たくさんの神様も、体でしか理解することができないという思想そのものも。
梵我一如。宇宙と自分が一つになることを目指す。いや、そもそも一つなのであるから、それを、体で感じる。
瞑想を教えてくれた蓮華定院のご住職は、声にならない息を吐きだし、大日如来様が吐き出した息を受け取って、交換する。それを何度も繰り返すことで、大日如来様と一体化できる、と言った。
空海は、きっと飛行機があったなら、ヒマラヤを目指しただろう。1200年前に生きた空海は長安で恵果和尚に出会い、そして密教を日本に持ち帰った。
空海のすごいのは、その密教を日本人に受け取りやすいようにアレンジを加えているところではないかと思う。曼荼羅も、中国では胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅は別のものであるらしい。そういう剛柔を合体させて丸ごとにしてしまう、みたいのが空海の力だし、日本らしさ、なんだと思う。
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