「アムリタ」を手に高野山へ①
南海電鉄に乗って高野山に入った。リュックサック一つで身軽に行くと決めていたから、本は一冊。何の本にするかはずっと迷っていた。
上巻で止まっていた司馬遼太郎「空海の風景」か、知人に教えられた空海の解説本か。出発数日前、一つの本が私の頭にやってきた。
私は、吉本ばなな「アムリタ」をリュックに詰めた。
書道の世界からの、高野山
書道をしている者にとって、言うまでもなく高野山は特別な場所である。「弘法も筆の誤り」の言葉の通り、日本人にとっての書道の神様は弘法大師・空海。
臨書を始めた者ならば「風信帖」にぶち当たり、その一見やわらかそうに見えて、書いてみると恐ろしく強く、どうにも再現できない不思議な力を持つ作品に圧倒される。そして、空海とはどんな人物だったのだろうと畏怖の念を覚えるのである。
「おんまいたれいやそわか」を書いてほしい。
東京豊島区の真言宗のお寺、金剛院のご住職(当時)の野々部利弘さんがそんなふうに言ってきたのはコロナの年2020年だった。それまでもいくつかの作品の依頼をくださっていたので真言宗には少しずつ愛着が湧いていた頃だったが、その"ぶっ飛んだ(=一般人にはあまりに馴染みのない)”依頼に私は面食らった。
弥勒菩薩のご真言、そう言われてもよくわからなかった。高野山への憧れは、私のミッションになった。
ヨガの世界からの、高野山
もう一つ、私を高野山に向かわせて世界がある。ヨガの世界だ。
10年前、二人目の子どもを産んだ頃、つまり離婚の直前、人生の大殺界みたいな時期。私の体はボロボロだった。生きているのもやっとみたいな時に、それでもすくすくと育っていく息子を何とかしなければと思い、始めたのがヨガだった。
たまたま出会ったヨガの先生(nemu先生の note)が、今にして思えば非常にラッキーなことに、インドの本格的なヨガを学んだ先生だった。レッスンの前後には必ずマントラを唱え、シンギングボウルを鳴らし、ヨガの哲学を話してくれた。
コロナになってその先生にヨガを習うことができなくなってしまったが、私の毎朝は太陽礼拝で始まる。夜は、余裕のある時はお香を焚いて、ヨガをし、「オン」から始まるマンガラマントラを唱えて平和を祈る。そんなルーティンになっている。
マントラ、と書いたが、これは日本語にすると、真言、になる。真言宗というのはマントラ(=真言)を唱える仏教宗派なのである。
今年私は、ヨガからインド哲学にハマった。このことはまた別の機会にゆっくり話すとして、
いよいよ、二つの世界から押し出されるように「高野山にいきたい」という願望が膨れ上がってきた私。それでも二人の小中学生を育てる母親の身として容易に口には出さなかったが、どうやら私の母は娘の心を読む力があるらしく、コロナの第7波が収まろうかというときに、サラッと私に高野山の旅行パンフレットを渡してくれた。
「ありがとうございます」
私は子どもたち二人を母に頼んで、期待よりもだいぶ早く、高野山に一人旅立てることになった。
不死を与える甘露「アムリタ」
吉本ばななの「アムリタ」は10代の頃に読んだことがある。当時の私には全く心に響かなくて、「なんだかスピリチュアルで気持ち悪い」という印象だけを残した。それでも、その印象はしっかり残すだけの力を持っていた。
インド哲学関係の本をあれこれ見ている時にふと「アムリタ」の文字が目に入り、その言葉がインド神話で不死を与える甘露のことであると知った。
今の私なら、少しは意味がわかるかもしれない。「アムリタ」を持って高野山にいくことにした。