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忘れられない先生 #9

「#忘れられない先生」というタグが少し前から盛り上がっていますね。生徒にとって先生は、青春の1ページに色を添えることになる存在。その自覚をもっていきたいところです。

こんにちは、ねぎとろです。
さて、私の忘れられない先生は結構多くいますが、思い返せばその多くが中学校でお世話になった先生でした。先生になりたいと思ったきっかけは高校の担任だったのですが、その先生のことはまた追々書いていくことにしたいと思います。

今回は、そんな中学校時代の忘れられない先生について書いていきたいと思います。

新卒1年目の担任の先生

中1の4月、入学式の2日前に行われた1日入学で、クラス発表と入学式の簡単な練習があったのですが、そのときに私たちのクラスに入ってきた先生は、若い女性の先生。その日の動きについての説明をするのですが、私たちからみても分かるド緊張。

その先生は大学院を3月に卒業したばかりの、新任の先生。当時24歳で、12歳だった私たちとは干支が一回り違う先生でした。

社会科の先生で、何事にも一生懸命。剣道部の顧問だったのですが、全く経験のない剣道を一から稽古し、秋ごろにあった検定で1級を取得するという熱の入りよう。聞いたところ、入部した1年生全員がまず1級をとるそうですが、仕事もある中で、その合間を縫って1年生と同じレベルまで稽古することはそう簡単ではないはずです。
だからといって教科指導や生徒指導に気を抜くような先生ではありませんでした。20人ほどのクラスでしたが、全員に気を配ってコミュニケーションをとっていましたし、私たちも私たちなりに話しやすい雰囲気を感じていたのだと思います。5月生まれの私でしたが、誕生日には日記帳のコメントとして蛍光ペン5色を駆使して「Happy Birthday!!」と書かれていました。先生にこんな風に祝われたのは最初で最後です(笑)

学習指導ではもちろん初任の先生ということで、試行錯誤の連続だったと思いますし、1年生3クラスのうち2クラスと、2年生3クラスの社会(合計15コマ)を担当していたので、1年目からかなりの経験をなされていたのだと思います。たまーに1時間つぶして映画を見るような先生でしたが、今思えばよくそんなことできたなあと…(笑)

しかし、その先生は翌年の3月、異動してしまうことになります。講師だったため、わずか1年でしたが、同じ市内ではありましたが別の小学校に異動するとのこと。(実は高校免許を持っていることは自ら話していたのですが、小学校免許を持っているとは聞いていませんでした…もしかして臨時免許?と思う今日この頃)
春休みに入り、辞令が出た日の昼、私たち卓球部の横で部活をしていた剣道部では、終わりのミーティングでその事実が部員に伝えられるとともに、号泣しながら部員に話をする姿は今でも忘れられません。もちろん(?)2日後の離任式でも号泣していたのですが、それだけ1年間私たち生徒にしっかり向き合っていた証拠だと、今になって感じます。

その先生は、5年の講師生活を経て、2017年に新採用で教諭となられたそうです。卯年生まれの私たち、あと2カ月半でお互い年男・年女です。

学校一怖かった教務主任

これも私が中1のときのお話。
理科の教科担任は教務主任を務められていた先生でした。しかも私たち卓球部の顧問であると同時に、友達に誘われて決まった教科係の担当が、まさかの理科。担任の先生よりも濃い付き合いだったといっても過言ではありません。
この先生、とにかく怖いことで有名でした。

授業2分前くらいになると教室前の廊下に待機。このときの教室の静まり具合で、次の時間どのクラスが理科の授業かがわかってしまいます。そして必ずチャイムと同時に入室して挨拶を行い、授業に入っていました。
授業自体は分かりやすく、適度な緊張感もあり、危険な実験なども行うという意味ではよかったと思います。「これまで20年以上の教員人生のなかで、定期テストで1度も100点を取られたことがない」と言っていましたが、私が入学してすぐの中間テストで、その記録はストップしてしまいました、いえ、私がストップさせてしまいました(笑) おそらくその先生から見ると私が「忘れられない生徒」かもしれませんね。

部活では、先生自身、中学時代卓球部だったこともあり、技術面の指導もかなりしていただきました。正直きつい練習ではありましたが、これが引退まで基礎となって活動できたと感じています。

このくらいではそこまで怖いとは感じないかもしれません。ですが、この先生の本当に怖いところは、その人間関係と性格にありました。

その先生は当時異動して6年目。異動初年度から卓球部を担当していたようですが、その前の顧問は別の学校に異動したわけではなく、いわば卓球部を外される形に。そこで新顧問vs前顧問の構図ができあがります(前の顧問も卓球経験者でした)。
私が入学するまでに前顧問の先生は同地区の別な学校に異動し、再び卓球部の顧問となったそうですが、その頃から地区の卓球部の顧問の先生方のなかでうちの先生だけ浮いてしまったというのがもっぱらのうわさ。その結果、1~2月に1回程度地区ごとに行われる合同練習試合に呼ばれなくなってしまったのです。結果私たちは、片道20分ほどで行ける自地区ではなく、片道1時間弱かかる隣の地区の合同練習試合に参加していました。基本的に親の送迎だったため、親の負担が増えることに。

また、その先生が異動してくる前の年に異動してきた体育の先生とも馬が合わなかったようでした。この事実も生徒や他の先生方の中では有名な話。先生方の中でうわさが広まるだけならまだ分かりますが、生徒にまでうわさが広がるのは、正直異常ですよね。

そう、これがこの先生の性格。人間関係のこじれを生徒の前でも堂々と見せてくるのです。それでいて気分屋であったため、常に先生のご機嫌を伺いながら、生徒も他の先生方も動いていました。今思えば"チーム学校"とは全くかけ離れたような先生でしたね。

その先生は中1の終わりに同地区の別の学校に異動しました。異動した学校では女子バドミントン部の顧問になったと、異動のあいさつのはがきに書いてありました。偶然にも、高校進学後、その学校のバド部出身の女子と仲良くなり、話を聞いたのですが、やはりあまりいい印象は持っていなかったようです。

ちなみに今、その先生は、教頭への昇任を経て、2021年より校長に昇任したそう。20歳以上も年下の私がいうのもなんですが、人間関係がうまくいっていることを祈っています。

いつも寄り添ってくれた国語の先生

最後に紹介するのは、中2のときに異動してきた国語の先生。この先生が、前の先生の後任として卓球部の顧問に就きました。

卓球の経験はない先生で、着任してすぐのころの土曜日の練習では、私たちの練習をよそめにスマホゲームをしていた先生でした。練習も部長を中心として自主性にある程度任せられることに。ただ、この先生がいなければ、秋の新人大会で団体として県大会に出場することはまずなかったと思います。(ちなみに個人戦の県大会はなかったと記憶しています)

1年次の顧問の先生は、技術面では秀でた指導力を持っていたものの、メンタル面はというと、特に教えられたことはなく、むしろ私たちはどこかメンタル面での弱さを持っていたと思います。1回戦で格上相手に全力で戦ったとしても、あまりにも不甲斐ないとみられると怒られそう…とか。早い段階で負けた大会の、試合後の報告はかなり行きたくなかったです。ベンチに入っていたとしても、負けたときはベンチに帰るのを待たずに別な部員のもとに行ってしまったりするので、なおさらです。たまに負けても残って声をかけてくれることもありましたが、それもおそらく機嫌次第だったんでしょう。

新しい顧問の先生は、技術面での指導ができないからという理由もあったのかもしれませんが、メンタル面で大きく支えてくれる先生でした。生徒と一緒になって応援し、喜び、悔しがる…。とある試合で劣勢になってしまったとき、セット間に

「○○(私の本名)、"勝てるかな"とか"負けちゃいそう"じゃないよ、"負けないんだ"というつもりで行ってこい」

と言われたのは、私の中学校の卒業記念文集のテーマになっています。

2年生のときの1月ごろだったと思いますが、同級生の部員の1人が不登校気味になってしまいました。理由は忘れてしまいましたが、人間関係がもつれたとかではなく、私たちが家に押し掛けると元気な姿を見せてくれていたので、おそらく休み明けで単純に"行きたくないな~"とか、朝になると憂鬱になるとか、そういうことだったと思います。

担任もある程度動いていたとは思いますが、これに積極的にアプローチしようとしたのがこの顧問の先生でした。私たち2年生の部員と顧問の先生で話をするなかで「まずは部活だけでも来させてみるのはどうだろうか」と打ち出します。
これが大成功。1週間くらい部活だけ顔を出す期間が続くと、徐々に授業にも来られるようになりました。先輩方の卒業式前日までは2時間目からの参加が大半だったのですが、卒業式の日に遅刻せず8時5分の始業に間に合ってからというもの、しっかり来られるようになったのです。

ここまで"国語"の先生ではなく"顧問"の先生としての関係が続きます。しかし、3年生になると、教科担任がこの先生に代わった一方、部活動は副顧問になってしまい、新たに異動してきた先生がメインで担当することに(新しい先生も卓球経験はなし)。当時副顧問の先生は全員2つの部活を掛け持ちしており、この先生は卓球とバスケを掛け持ち。すると、部活の時間のほとんどをバスケ部に顔を出すようになってしまいます。

もちろんこれについて理由などが語られることはありませんでした。が、私たち同級生のなかでは理由の見当がついていたのです。あくまで憶測なので詳しくは書きませんが、私としては不本意ながらとりあえずこの事実を受け入れることにしました。

6月中旬の最後の中体連大会。県大会の切符をつかむことはできませんでしたが、2日目の会場には副顧問の姿が。私がその姿を見たのが敗退してベンチに帰ってきた直後だったため、先生と会話をすることは私の感情的にできませんでした。先生も私のその姿を見て、そっとしておいてくれたのだと思います。

この1週間後に期末テストがあり、それに付随してワークブックの提出を求められました。返却されると、提出範囲の最終ページに評価が書いてあるのを見つけたのですが、同じページにこんなことが書いてありました。

「中体連、お疲れさまでした。○○(私の本名)の勇姿を最後まで見届けることができなく、本当に申し訳なく思います。高校入試に向けて、今度は最後までサポートしていきます」

学校で泣きそうになったのを覚えています。泣きませんでしたが。

この先生は私たちの卒業後4年間勤務し、現在は指導主事として行政で働いているそうです。恐らく次現場に戻られるときは教頭先生かなとは思いますが、今度は先生同士として会えるといいなと思っています。

※記事執筆現在、福島県はまだ合格していません。


長くなってしまいましたが、私がいい意味でも悪い意味でも忘れられない先生を紹介してきました。長々と思い出語りになってしまいましたね。最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。

Sunday, 2022/10/16


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