誰もが心にムルソーを飼っている―カミュ『異邦人』
我々が「異端」だと思っているものは、自分も持っているに見ないことにしてるだけなのかもしれない。
アルジェリアに住むムルソーは、ひょんなことから友人の女性トラブルに関わる。そしてトラブルの関係者を突如ピストルで殺してしまう。一発の銃弾で倒した後、倒れた身体にもう四発撃ち込んで。
ムルソーが殺人を犯すまでの前半はのっぺりと進んでいく。彼の母が養老院で亡くなったことも、かつての同僚マリイとデートして関係を持ったことも、仕事も、近所の人々との会話も、すべて同じ温度で語られていく。もちろん殺人もだ。前半だけ読むと彼には感情がないようにもサイコパスなのかとも思える。
後半は独房と裁判のパートだ。彼が収監され、裁判にて死刑判決を受け執行を待つ日々を書いている。
独房での生活にどんどん適応していって何にも感じなくなる様には、彼が独房という特殊な環境も前半部のような温度感で生きていけるようになったことを示唆している。
彼は自分の裁判を第三者のように淡々と眺めている。自分の話なのに自分のことを問われてる気がしないのだ。思えば弁護士や検事との会話が噛み合わなかったのも、彼らがそれぞれ裁判に勝つべく思い思いのムルソー像に彼を当てはめようとしたからだろう。
そして、司祭との対話を通して彼は己の感情をむき出しにし、死刑執行を待つだけの自分が幸福であることに気づき物語は終わる。
殺人に対する後悔の様子もなければ、自分は幸せだともいう。自分が助かろうと裁判を戦ってる雰囲気もしない。ムルソーという男はまさに「異質」だ。
だが、本当にそうなのか。
母が亡くなったとき、その死に顔を本当に見なくてはいけないのか。死の翌日に誰かと遊んで映画を見ちゃいけないのか。これらの行為をしないのは死を悲しんでいるのではなく、「死を悲しむ」ポーズをしてるのに過ぎないのではないだろうか。
裁判ではムルソーが母の死を本当に悲しんでいることが大きく問われていた。だが母が亡くなったときの振る舞いが殺人とどんな因果があるというのか。
検事や司祭は神を持ち出してムルソーに告白を迫る。しかし神を持ち出しさえすれば自分の思惑通りの言葉を相手から引っ張り出せると思ったら大間違いだ。
確かに外面はよくない。「なんとなく」やっておいた方がいい行為かもしれない。でもムルソーの振る舞いはその「なんとなく」の欺瞞を意図せず突きつけている。
仮に人を殺すことがなくても誰もがムルソー的な要素を持ち合わせているのではないだろうか。「なんとなく」よしとされているものは、実をいうと本質と関係ない。それらを欺瞞として拒否して思うままに振る舞う感情こそ、皆が心に買っているムルソーだ。
タイトルの「異邦人」とはおそらくムルソーのことだろう。しかし彼は本当に異邦の者なのか。仮に異邦だとしたら、我々だって異邦の感情は持ち合わせてるに違いない。
【本と出会ったきっかけ】
札幌のすすきのにあるバー・Agoraで開催される読書会の課題図書だったため。