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レイト、レイトショー

ある日の夏の夜。

母は仕事から帰ってきてこう言った。
『今から映画観に行こっか。』

夜は19時を過ぎている。

夏休みが始まり、朝のラジオ体操を行ってから学童へと向かう日々だったが、学童も早めのお盆休みに入り、私たちは朝から晩まで家でぼんやりTVを見たり見なかったり、漫画や本を読んだり読まなかったりしてグダグダと過ごしていた。(自由と言ってもやはり小学生の自由には制約がある)

世間一般のお盆休みは明日がカレンダー通り。

当然うちの母も例外ではなく、明日から数日間のお休みが始まる。

だからきっと解放感があったのだろう。母は珍しく少しはしゃいでみえた。

そしてそれは、子どもたちである私たちにもかなりの胸熱展開であったから、この非日常な非常事態に私と妹のテンションはぶち上がり、

『行く行く行く〜!!!』
と、大はしゃぎをしたのだった。

『じゃあはよ用意し。今からやったらもののけ姫の最終の回に間に合うやろ』

そう言うと、母は冷蔵庫を開け、グラスに氷とアイスコーヒーを入れ始めた。

当時もののけ姫は空前の大ヒット。
連日情報番組では、興行収入第一位を更新し続けている事や、沢山の人たちが映画館へ足を運んでいる事を教えてくれたし、宮崎駿監督の引退宣言もあって、私たち子どもたちも『ほんまにもう作らへんのかなぁ』と折紙を折ったり、漫画の絵を写したりしながら監督の心配と、もののけ姫の話をして持ちきりだったのだ。

((もののけ姫!!))

私たちは大急ぎでどたどたどたと競う様に短い廊下を走りだし子供部屋に飛び込み、用意をする。

母の気が変わらない内に!!

箪笥からはここぞという時の薄い色をしたグリーンのギンガムチェックのキャミワンピースを引っ張りだし、心許無く音のする貯金箱をカラカラ音をさせ穴から急いでお金を出したら、大好きな淡い色のチューリップの髪飾りをハーフアップの髪に留めた。

何度か斜めになって、もたついたが、3回目でようやっとしっかり留める事ができた。

妹もいそいそと用意をしている。

『できた!!!』 

妹と同時に雪崩れ込む様に入り、居間にいる煙草を吸いながらぼんやりと空を見つめた母に声かける。


母はヘビースモーカーで、常にコーヒーを摂取する人だった。
自分にとても厳しい人で、努力している姿を人に見せず、弱音も吐かず口数もあまり多い方ではなかったから、誤解される事も多かった。

1匹狼気質で、少し孤独な人だった。
だけど母は賢い人だと私たちは知っていたから、そんな母が褒められると私たちは鼻が高かった。

よく考えるとまだ若かったのだ。
沢山のものを背負って生きる母をその時の私は、どんな時も強い母だと思っていたが、きっと気を張って生きていたのだろう。その時まだ30代前半だった。

母はぼんやりと煙を吐く。朝起きたとき、話をしているとき。仕事が終わったとき。

煙草を吸って、ぼんやり何を考えてるか分からない目をし、いつもよりその姿が頼りなく小さく見えると、何故か声をかける事を躊躇う時があるのだった。

『じゃあ。行こか。』
ムラサキと白の真鱈模様になっている灰皿に煙草を押し付ける。ほぼ口をつけていないアイスコーヒーを流しに持っていく。

だから、母が嬉しいと私たちは嬉しい。


私たちはごく僅かな人にしか見せないチャーミングさを知っていたから。

だから、そういう時は張り切って、大きめにはしゃぐ。

いそげいそげ!と私たちは靴箱からサンダルを出す。

当時流行っていたミュールサンダル。これは母からのお下がりだ。

押し合う様に玄関を出ながら振り返ってみると、電気を消した部屋は急に知らない場所に感じた。

あの家はとても暗闇を感じる家だった。

暗闇の中で誰かがこちらをジッと見ている様な気がして、私たちは最後の一人にならない様に急いで出ていく。

重い扉がしっかりしまる。

ガッチャン。

もう安全だ。家族全員セーフ。

夏の夜の団地の階段をスキップする様に軽快に降りていく。

カロカロカロっとサンダルから音がする。

リーリーリーと何処からか虫の声がする。蛍光灯がいつもより明るく照らす。

白々とした長細い蛍光灯に何度も虫がぶつかり、バチバチと音がする。

いつもは大人っぽく振る舞う様にしていた私だが(子どもっぽいのってなんかダサイ)本当は階段の4段目からも頑張れば5段目からも飛び降りる事が出来る。


それを母に見せたくて、妹にも自慢したくてガン!と私が飛ぶ。

ヒールの音が鈍く聞こえて5段目から飛ぶと音が重い。

それを見て妹も少し考えて3段目かトン!と飛ぶ。

隅の方の暗がりに裏返ったカナブンが揺れる。


『こら!迷惑になるから大きい音立てたあかん。』

母から注意を受けるが、その目は優しかった。

はしゃいでいる私たちを微笑ましく思っているのだろう。

私たちは素直に返事をする。

そして、私たちは母の前を歩き、事前に突如現れる掌サイズの恐ろしい柄の蛾や蜘蛛の巣は、早めに母に教えてあげる。

『気をつけて!』

『この先に大きい蛾がいるよ!』

母は虫が苦手だからだ。

母もさっき帰ってきたばかりなので、当然知っているはずだが、忘れていたらダメなので、ちゃんと教えてあげる。

怖くないよ。大丈夫。

落ちた死骸も沢山あったけど。死んだものは大丈夫。だってもう動かない。

動かなければ、悪い事はしてこない。


家の前の駐車場の車に滑り込む様に乗り込む。

エンジンをかけると、私たちはワクワクした。

車は小さな軽だ。軽快に走り出す。

小さな緑の車が3人を乗せて夜の街へと運び出す。

大きな国道に入ると、沢山の車が同じ方向へ向かった。

流れる光が私は好き。

誰もこちらを見ていない。

小さな私たちの空間。

高架橋で後ろのバイクに乗っているお兄さんに手を振る。

が、気づいていない。

少しすると、バイクは私たちを追い越していった。

景色がどんどん流れていく。

マクドナルドやビデオ屋さん、郵便局や銭湯。一際眩しい大きな敷地は打ちっぱなしのゴルフ場。

沢山の人が白く照らされた、青々と光る芝生に向かって同じ方向にボールを打ちこむ。

不思議だ。

その内、車はゆるく大きなカーブを曲がり重複区間へ。

沢山の光が窓から漏れている電車の横を走る。

光を透かしたフィルムの様な車体の電車はゆっくりと車と差をつけ始める。

頑張れ!と車を応援するが、結果はいつだって負けてしまう。

電車に乗車している人は、こちらにまったく気づかない。遠くを見つめていたり、あるいは眠っていたり、新聞を読んだりしていて、同じ時間を生きている人には見えない。

そうして少しずつ道が離れていく。

電車も線路も遠のいていく。

私たちは無言で外の流れる景色を楽しんでいるが、車内に知っている曲が流れ出したら全力で歌い出す。

カセットテープには、最近流行りの音楽が録音されていた。

母が休みの日にレンタルCDショップで借りてきて、カセットテープに入れたやつだ。

KinKi Kidsの硝子の少年が流れて妹と歌う。

KinKi Kidsは仲の良いクラスメイトが好きだから、私も覚えてる。

結婚したばかりの安室ちゃんのCAN YOU CELEBRATE?も気持ちを込めて歌う。

母が面白そうに笑う。

当時、安室奈美恵さんの格好をしたアムラーというお姉さんたちをよく見かけた。

黒のタートルネックとバーバリーのチェックのミニスカートと厚底ブーツ。

スラッと細く長い足に、小顔のショートヘアは彼女にとても似合っていて、結婚会見で着ていたこのファッションは安室ちゃんを代表するものであった。

安室ちゃんのファッションは勿論、小学生にもやや遅れて反映しており、キャミソールやバーバリーもどきのミニスカート、そして厚底ブーツは地味な私も持っていたし、会った事もないのに気休く安室ちゃんと呼んでいたし、なんとなく真似をして踊ったりもしていた。

当時のその他のブームといえばたまごっちが大流行していて、母が職場の人に頼んで買ってきてくれた。たまごっちは何度やってもまめっちにならず絶望したし、妹は誕生日にポケットモンスター緑をお願いしていた。

母は車に乗るのが好きだった。

だから、かなり遠い街の本屋さんや色々な所へ、ドライブがてらよく行く事があったけど、こんなに遅い時間に出歩くのは初めて。

景色や光はドンドンと後ろへ流れていく。皆どこへ行くのだろうか。

小学生からすると、不思議でたまらない。

私も大人になったら、こういう時間まで外にいたりするんかなぁ。

『なあ。お母さん。』

後部座席から前のめりになる

『もののけ姫観れるかなぁ〜』

ふと不安になって、聞く。

ちらりとバックミラーでこちらを見た母が、

『どうやろ〜まあ無理やったら別のやつ観て帰ったらいいやん。』

『うーん。別のやつか〜』

もののけ姫がいいな。絶対。もののけ姫やったら、夏休み終わってから皆に話せるもん。他のはいややなー

心の中でそう思い、またぼんやりと窓の外を眺めた。

当時はまだ映画館には立ち見があったし、一度映画館に入ったら劇場から出ない限り、次の回、その次の回も観る事ができた。

なので、一回目の映画を途中から入場して立ち見して、その後の次の回で席に着き、見逃した部分を観て、コソコソと(じゃあ、出よか)みたいな事もよくあったのだ。

けれど、今から行く映画館は立ち見なしの完全入れ替え制だったので、もしかしたら人がいっぱいで観れない可能性もある。

大丈夫かな〜

心配を他所に、車はワーナー・マイカル・シネマズ東岸和田店に着いた。

暗闇に大きなオレンジのWBの文字が光る。

『ここは穴場なんよな〜』と母は毎回満足そうに言っていた。

私の住んでいる家からかなり車を走らせたこの場所は、母のお気に入りであった。

まず立ち見がない事は分かるとして、外資大手シネコン?THX?DTS?先行レイトショー?など、その言葉たちは何回聞いても私たちを困惑させ、なんやそれ?と、はてなマークだらけになった。

しかし、母が言うなら間違いない。それはすごい事なのだ。だって母はすごいもん。

母が満足そうにしていると、私たちは分からないのに、うんうん。と頷いた。

母は映画を愛した。

音楽、舞台、本を愛した。

若い頃に観たり聴いたりした舞台や音楽の話を教えてくれ『あんたらにも観せたげたいわぁ。』とよく言っていた。

一度なんかは、TVの先行予約に電話をかけようとして、はた、と気付きやめた事もあった。

確かに3人分となると結構なお値段になる。

その点、映画や本は貧乏な私たちに手が届きやすかった。

だから、夏休みや冬休みなどの長期の休みに入ると、母は映画館へ連れて行ってくれた。

映画もその時期に合わせて、子ども向けのものが沢山作られていたから、当時の私たちは新聞に載っている映画館や上映時間、日にちなどの情報を照らし合わせて確認していた。

そして頭を悩ませていたのだった。

なぜなら、観たい映画とやっている映画館が一致しない事があるからだ。

現在は、一つの映画館に複数のスクリーンがあり、しかもヒット作品が同時に上映されていて(しかも上映回数も沢山ある)配給会社を自由に選べるシネマコンプレックス方式の大型映画館が主流だが、当時はまだ小さな映画館が主流で、上映作品は大手映画配給会社が契約した所でしかやっておらず、スクリーン数も限られている為、映画を観るのにはちょっとした本気を出さないといけなかった。

だから何を観るかで、兄妹喧嘩は珍しくなかった。

場合によっては、全く観たくないものを観るはめになる。

小学生でも、それぞれの歳によって流行りがあるのでここは譲れなかった。

この問題については、長期の休みが近付くとおのずと思い出され、私たちはどうやって妹弟を懐柔するべきか、そして妹弟たちは、姉や兄に懐柔されない様にするにはどうするべきかをよく教室で友達と議論をしていた。

なので、この外資大手シネコンというのは当時珍しかったのだ。

今となっては小さな劇場の方がどんどん少なくなっててきて、小さな劇場には劇場特有の滋味すべき思い出もあるので、それはそれでとても寂しい。


映画は私たちが経験出来ない沢山のストーリーが溢れていた。

歴史や愛情や裏切りや勇気や知恵。

沢山の感情、沢山の場所。

沢山の感動、沢山の高揚感。

およそ2時間の人生の旅。

キラキラしたものから、ドロドロしたものまで、一人では手に入れる事の出来ないストーリーたち。

私たちはそれを愛した。

正確には、母の輝く目を愛した。

だから、私の映画黄金期は母が愛したこの時代だ。

今でもその時代の映画を観ると、キュンとなってしまう。

映画館は沢山の大人がレイトショーの為に並んでいた。

その一番後ろに並び、妹と何度も前の列の人を数えて、座れるかな〜、これみんなもののけ姫の人かな〜と言っていた。

ここまで来たら絶対観たい。

『あかんかったら、皆別々の席でもいい?』と聞かれて思わず頷いたものの、少し心細い。

ドキドキしながら順番がきて、チケット売り場の方に母が『3席隣同士の席ありますか?』と聞く。

お姉さんは『そうですね〜本日は大変混み合ってますので〜…』と言いかけて、カウンター越しの捨て犬の様な私たちの顔に気付き『ちょぉっ…と待って下さいねぇ〜えーと…うーん…うーん』とかなり一生懸命探してくれ『あ!ありました!』と叫んでくれたのだった。

わぁっと歓声が上がり『ありがとうございます!!』『よかったね〜』『よかったですね』と喜び合い、そして私たちは外が見える階段を駆け上がって2階へ上がった。

外は真っ暗だ。

こんな時間に映画観てると知ったら、クラスメイトはびっくりするぞ。

ふふふ。と悪い笑いが出る。

2階ロビーは薄暗くふかふかのカーペットに丸いWBの文字が浮かび上がり、そのライトはカーペットの上をくるくると回った。

天井は真っ赤で、入って左手には黄色のネオンで『CINEMASTORE』と書いてあり、パンフレットやグッズを売っている。

中央には大きなワーナーのキャラクターの看板があって、その下にはオレンジ色のネオンで『FOOD & DRINK』と書いてあり、その中は黄色のタイルで囲まれている。

そこにはガラス張りの機械に赤地に白文字でPOPCORNとか書かれていて、その中では沢山の出来たてポップコーンが芳しい香りをさせていた。

その匂いを嗅いだ時、映画館に来たんだという気持ちにさせてくれる。

カウンターのポップコーンの機械の横にはバッグズバニーがのんびり横たわって人参を軽くこちらへ持ち上げている機械がある。そのウサギのついた青い機械には小さくペプシコーラや烏龍茶、セブンアップ、メロンソーダなどのロゴ表示が付いていて、おそらく飲み物の機械だった。

奥にはAsahiと書かれた3段程の小さな専用冷蔵庫があり、その中では缶のアサヒスーパードライやペプシコーラが冷やされていた。その他にチュロスやホットドッグ、ハーゲンダッツの写真が魅力的にテラテラと光って目を奪われたが、情報の全てちゃんと読み取るには時間が足りず、すぐに順番がきてしまう。

『何にする?』

母が聞いてくれ、沢山ある楽しい食べ物を眺める。しかし、実際私はかなりの偏食家だったのでせっかくの映画館に付き物のそれらは大体苦手なものであった。

後にキャラメルポップコーンという神がかった味に出会うまでポップコーンは特に苦手だったし、ハーゲンダッツは高いしね。

なので、メロンソーダを選ぶ。

母はいつも三角形のトウモロコシの粉でできたトルティーヤチップスに黄色いトロトロのチェダーチーズか赤いサルサソースにつけて食べるナチョスを選ぶ。

勿論、アイスコーヒーと一緒に。

『いる?』と必ず聞いてくれるが、毎回首を横に振る私たちを見て、母はなんとなく楽しそうに『おいしいのに〜』と一人で食べていた。

その後、ぐるりとグッズ売場を覗き見るが、まだ観ていないのでよく分からない。

『なんか欲しいのないの?』

母が聞いてくれるが、よく分からないので、とりあえず首を横に振って大人しく会場前の列に並ぶ。

並びながらでかでかと光るキャラクターの看板を横目でみて、この後出てくるであろうマナー予告のトゥイーティーの真似を妹とする。

『わるいねこちゃんめぇ!』

ゲラゲラ笑う。

私たちはこの時彼をひよこだと信じてやまないが、この存在は実は後にカナリアだと知る。

全く弱くないカナリア。

名前を知るのも、その事実を知るのもずっと後だが、私たちはよく分からないままゲラゲラ笑っていた。

母が『何それ。』と不思議そうに笑う。

列はじわじわと前へ進みだした。

チケットを握りしめて、その時を待つ。

入る時が一番ドキドキする。

あぁ。これから始まるんだ。

ようやく自分達の番がきて、青とオレンジの制服を着ているお兄さんにチケットを渡す。

私たちを見ると『いってらっしゃい〜』とチケットをもぎってくれた。

ちなみにかなり昔の話であるし、夜の映画は後にも先にもこの一回だけだ。

というのも、母は基本的に非効率な事が嫌い(たまに急に思い立った様な行動をする時もあるが)だったので、映画を観る際は、まず朝一にチケットを買って席を確保し、上映時間までは隣のサティへ行って時間を潰し、そして各々好きな映画の時間になったら観に行くというのがルールだった。

ちなみに現在は『終映が23時(大阪府は22時)を過ぎる上映回には18歳未満の方は保護者同伴でもご入場いただけません。大阪府においては、16歳未満の方で保護者同伴でない場合は、終映が19時を過ぎる上映回にはご入場いただけません。』だそうだ。

この時がどうだったかは、分からない。

ともかく、そうして観た映画はとても楽しかった。

私たちはモロの真似をしながら、外に出るとそこは本当に本当に深夜だった。

起きているのは会場から出てくる人だけ、そんな錯覚をした。

街も既に眠っている。静かな静かな夜だった。

そうして、バタンバタンバタンと皆車に乗り込む。

先程会場で一緒に感動を分かち合った皆が帰っていく。

話し声も次第に少なくなる。

私たちも車に乗り込む。

エンジンをかけて、白く光るデジタル表示の時計を覗き込む。時刻はかなり遅い時間だ。

そしてゆっくりと夜へ滑り出す。

帰りは皆静かだった。

窓の外を見ながら、一人今日観た映画のシーンを反芻する様に何度も何度も思い出す。

街は光が少なく、ガランとしていて本当に誰も人がいなくなったみたいだ。

たまにコンビニが白くポツンと映る。

同じ方向に出た車ももういない。

見える家々の窓は、灯りが消えていて、信号も点滅に変わり、街灯だけが頼りなくこの先の道を照らしている。

でも大丈夫だ。

私たちは家族一緒にいるから。

道に迷っても大丈夫。

そう思って隣を見ると、いつの間にか、妹は眠っていた。

母がテープの音を小さく絞る。

『あんたも寝ていいよ』

母がそう言ってくれたけど、私はもう少し起きている事にした。

もう少しこの余韻に浸りたい。そう思ったから。


帰りは行きより早く着いた。

妹を起こし、車を降り、そーっとそーっと階段を登って、重いドアをできる限り静かに閉めた。

その後は、すぐにおやすみなさいをして布団に潜り込む。

明日はお休みだから。みんな、ゆっくり寝て、朝寝坊しよう。

その母の言葉を聞いて、

あくびを一つして、すぐ目を閉じる。

私たちは、深く深く、眠りについた。

深く深く。

夢も見ないぐらい深く。

深く。

深く。

9時。

ルルルルル。

突然電話が鳴った。

誰だろう。こんな朝早く。

母もそう思ったのだろう。

布団の中から面倒くさそうに受話器を探してる様な気配がする。

『もしもし…』

母のかすれた声がした。

少し間があり。

そして息を飲む。

一言二言、聞き取れないくらいの声で何かを話して、そして電話を切る音がする。

沈黙。

少し様子を見て布団の中で待っていたが、動きはそれ以上なく、なんとなく様子がおかしいと思った私は、不安になり、ゆっくりと起き上がり声をかけに行く。

『おはよう…』

母が天井をぼんやり見ていたが、ごろんとこちらに顔を向け、そしてゆっくり起き上がった。

『おはよう』

母も挨拶を返す。

母は細い髪質なので後頭部の髪の毛が寝癖で絡まっていた。

『…さっきの電話…誰から?』

私は只事ではない気がして、恐る恐る聞いてみる。

母は少し間をあけ

ゆっくりと

こう言った。


『私、休み一日間違えてたわ。』


そう言って、タバコに火をつけた。

『え!え!え!』

『だ、大丈夫なん?!』

母は焦る私を見て、少し笑いかけながら

『うん。まあ。仕事は昨日全部終わらせてきたから…でもしまったわ。何で間違えたんやろ』

そして煙を吐く。

会社の上司や職場の方たちは『いつも真面目でしっかり者で遅刻なんて絶対しない母』がまさかまさか休みを間違えるだなんて思っておらず、事故でもあったのか、それとも体調不良かと心配し、電話をかけてきてくれたのだった。

母は当然休みだと思っていたので『今日は…どうしたの?何か…あった?』といつもは怖い上司が不安そうに聞いてきたのを不思議に思い、少し考えカレンダーを見て、そして気付いた。

母は一日休みを間違えてたのだった。

その事を正直に上司に伝え、今から向かいます。と伝えると、上司は大笑いして『君でもそんな事あるんだね!あ〜仕事終わってるんなら、休んでいいよ』と、言ってくれたそうだ。

『あーあ。』

『あーあ。』

そう言って、母は立ち上がり冷蔵庫を開け、氷とアイスコーヒーを入れる。

『でもさ。きっと休みが終わったら忘れてるよ。きっと』

慰めにもならない慰めを私が母に言う。

『そうかなぁ…やってしまったなぁ…』

母はまた定位置に座り、吸いかけのタバコに手を伸ばす。

薄暗い部屋で二人ともボサボサの頭で話ししていたら、その気配に気付いて妹も起きてきた。

私たちは『おはよう。』と声をかける。

『おはよう…』妹はだるそうに言いながら、また布団へとパタリと横たわる。

『お腹減ったなぁ。』

そう言いつつ、誰も動く気配がない。

母は低血圧だし、私も動くのは面倒くさい。

セミがミンミンと鳴いている。

私も横になって、ぼんやりそれを聞く。

横になったまま、一番最初に立つのは誰なのか、ぼんやりとした頭で考える。

カーテンの隙間からは、今日も暑くなりそうな日差しを感じる。

ぼんやりいつまでもこのままな気がした。

今はこの映画館も無くなり、この横になっている畳も、あの日の車も、母もいない。

1997年の夏はずっとずっと遠い。

けど、ふいにこの夏の日差しと同じ日差しを感じた時、あるいは暗い部屋で気だるさを感じた時に思い出す。

振り返ると私たちの記憶は新鮮なまま残っている。

私たちは3人、夏の部屋に横たわっている。

1997年遠い夏の記憶。

あの場所でずっと横たわっている。




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